られて、翌日私達三人の少年は故郷の山村を發ちました。坂になつた驛路の名殘の兩側には、それぞれ屋號のある親しい家々が並んで居ます。私達は一軒々々田舍風な挨拶をするために立寄りました。日頃洗濯や餅つきの手傳ひなどに來る婆さんとか、又は出入の百姓とかの人達までいづれも門に出、石垣の上に立ちして、私達を見送つて呉れました。九月の日のあたつた村はづれまで送つて來て呉れる人もありました。暗い杉の木立の側を通り、澤を越して行きますと、字《あざ》峠と言つて一部落を成したところがあります。その邊まで私達に附いて來て名殘を惜む人もありました。お頭《かしら》の家のある峠を離れて、私達は旅らしい山道に上りました。
 その頃は京濱間より外に鐵道といふものも無く、私達の故郷から東京まで行くには一週間も要《かゝ》るほど不便な時でした。それに大きな谷の底のやうな斯の山間《やまあひ》を出て、馬車にでも乘れるといふ處まで行かうとするのには、是非とも高い峠を二つだけは越さなければ成りませんでした。
 全く方角も解らなく成つて了つたやうな、知らない道を三日も四日も歩いた後で、私は銀さん達と一緒に左樣いふ峠のしかも險しい石塊《いしころ》の多い山道にさし掛りました。私は風呂敷包を襷にして背中に負《しよ》ひ、洋傘《かうもり》を杖につき、喘《あへ》ぎ喘ぎその坂を攀ぢ登りましたが、次第に歩き疲れて、お文さんの兄さんや銀さんから見ると餘程後れるやうに成りました。日は暮れかけて、山の中は薄暗く見えるやうに成つて來ました。
『金米糖を呉れなけりや、歩けない。』
『呉れるから、歩け。』
 私は兄と斯樣な押問答をして、路傍《みちばた》の石に腰掛けては休み/\、復た出掛けました。そのうちに金米糖どころでは無くなつて來ました。私には歩けなく成りました。何となくお腹まで痛く成つて來ました。私は洋傘をそこへ投出して動かずに居たこともあります。すると兄が私の傍へ來て、私の帶へ手拭を結はへ附けまして、それで私を引き立てました。
 斯の骨の折れる山道を越して、漸《やつと》のことで峠の下まで歩いて行きますと、澤深い温泉宿のやうな家々の灯が私の眼に嬉しく映りました。そこが中仙道の沓掛《くつかけ》であつたかと覺えて居ます。
 何處から馬車に乘つたかといふことも、ハツキリとは記憶しません。唯、前の方へ突進する馬車と……時々|馬丁《べつたう》の吹き
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