かっぽうぎ》も、見慣れるうちにそうおかしくなくなった。
「次郎ちゃんは?」
「お二階で御勉強でしょう。」
それを聞いてから、私は両手に持てるだけ持っていた袋包みをどっかとお徳の前に置いた。
「きょうはみんなの三時にと思って、林檎《りんご》を買って来た。ついでに菓子も買って来た。」
「旦那さんのように、いろいろなものを買って提《さ》げていらっしゃるかたもない。」
「そう言えば、鼠坂《ねずみざか》の椿《つばき》が咲いていたよ。今にもうおれの家の庭へも春がやって来るよ。」
そんな話をして置いて、私は自分の部屋《へや》へ行った。
私の心はなんとなく静かでなかった。実は私は次郎の将来を考えたあげく、太郎に勧めたとは別の意味で郷里に帰ることを次郎にも勧めたいと思いついたからで。長いこと養って来た小鳥の巣から順に一羽ずつ放してやってもいいような、そういう日がすでに来ているようにも思えた。しかし私も、それを言い出してみるまでは落ちつかなかった。
ちょうど、三郎は研究所へ、末子は学校へ、二人《ふたり》とも出かけて行ってまだ帰らなかった時だった。次郎はもはや毎日の研究所通いでもあるまいというふうで、しばらく家にこもっていて描《か》き上げた一枚の油絵を手にしながら、それを私に見せに二階から降りて来た。いつでも次郎が私のところへ習作を持って来て見せるのは弟のいない時で、三郎がまた見せに来るのは兄のいない時だった。
「どうも光っていけない。」
と言いながら、その時次郎は私の四畳半の壁のそばにたてかけた画《え》を本棚《ほんだな》の前に置き替えて見せた。兄の描《か》いた妹の半身像だ。
「へえ、末ちゃんだね。」
と、私も言って、しばらく次郎と二人してその習作に見入っていた。
「あの三ちゃんが見たら、なんと言うだろう。」
その考えが苦しく私の胸へ来た。二人の兄弟《きょうだい》の子供が決して互いの画《え》を見せ合わないことを私はもうちゃんとよく知っていた。二人はこんな出発点のそもそもから全く別のものを持って生まれて来た画家の卵のようにも見えた。
次郎は画作に苦しみ疲れたような顔つきで、癖のように爪《つめ》をかみながら、
「どうも、糞《くそ》正直にばかりやってもいけないと思って来た。」
「お前のはあんまり物を見つめ過ぎるんだろう。」
「どうだろう、この手はすこし堅過ぎるかね。」
「そんなことをとうさんに相談したって困るよ。とうさんは、お前、素人《しろうと》じゃないか。」
その日は私はわざと素気《すげ》ない返事をした。これが平素なら、私は子供と一緒になって、なんとか言ってみるところだ。それほど実は私も画が好きだ。しかし私は自分の畠《はたけ》にもない素人評《しろうとひょう》が実際子供の励ましになるのかどうか、それにすら迷った。ともあれ、次郎の言うことには、たよろうとするあわれさがあった。
次郎の作った画《え》を前に置いて、私は自分の内に深く突き入った。そこにわが子を見た。なんとなく次郎の求めているような素朴《そぼく》さは、私自身の求めているものでもある。最後からでも歩いて行こうとしているような、ゆっくりとおそい次郎の歩みは、私自身の踏もうとしている道でもある。三郎はまた三郎で、画面の上に物の奥行きなぞを無視し、明快に明快にと進んで行っているほうで、きのう自分の描《か》いたものをきょうは旧《ふる》いとするほどの変わり方だが、あの子のように新しいものを求めて熱狂するような心もまた私自身の内に潜んでいないでもない。父の矛盾は覿面《てきめん》に子に来た。兄弟であって、同時に競争者――それは二人《ふたり》の子供に取って避けがたいことのように見えた。なるべく思い思いの道を取らせたい。その意味から言っても、私は二人の子供を引き離したかった。
「次郎ちゃん、おもしろい話があるんだが、お前はそれを聞いてくれるか。」
そんなことから切り出して、私はそれまで言い出さずにいた田舎《いなか》行きの話を次郎の前に持ち出してみた。
「半農半画家の生活もおもしろいじゃないか。」と、私は言った。「午前は自分の画《え》をかいて、午後から太郎さんの仕事を助けたってもいいじゃないか。田舎で教員しながら画《え》をかくなんて人もあるが、ほんとうに百姓しながらやるという画家は少ない。そこまで腰を据《す》えてかかってごらん、一家を成せるかもしれない。まあ、二三年は旅だと思って出かけて行ってみてはどうだね。」
日ごろ田舎《いなか》の好きな次郎ででもなかったら、私もこんなことを勧めはしなかった。
「できるだけとうさんも、お前を助けるよ。」と、また私は言った。「そのかわり、太郎さんと二人で働くんだぜ。」
「僕もよく考えてみよう。こうして東京にぐずぐずしていたってもし
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