まい》の玄関のところで、思わずそこへやって来た三郎を打った。不思議にも、その日からの三郎はかえって私になじむようになって来た。その時も私は自分の手荒な仕打ちをあとで侮いはしたが。
「十年|他《よそ》へ行っていたものは、とうさんの家へ帰って来るまでに、どうしたってまた十年はかかる。」
私はそれを家のものに言ってみせて、よく嘆息した。
私たちが住み慣れた家の二階は東北が廊下になっている。窓が二つある。その一つからは、小高い石垣《いしがき》と板塀《いたべい》とを境に、北隣の家の茶の間の白い小障子まで見える。三郎はよくその窓へ行った。遠い郷里のほうの木曽川《きそがわ》の音や少年時代の友だちのことなぞを思い出し顔に、その窓のところでしきりに鶯《うぐいす》のなき声のまねを試みた。
「うまいもんだなあ。とても鶯《うぐいす》の名人だ。」
三郎は階下の台所に来て、そこに働いているお徳にまで自慢して聞かせた。
ある日、この三郎が私のところへ来て言った。
「とうさん、僕の鶯《うぐいす》をきいた? 僕がホウヽホケキョとやると、隣の家のほうでもホウヽホケキョとやる。僕は隣の家に鶯が飼ってあるのかと思った。それほど僕もうまくなったかなあと思った。ところがねえ、本物の鶯が僕に調子を合わせていると思ったのは、大間違いサ。それが隣の家に泊まっている大学生サ。」
何かしら常に不満で、常にひとりぼっちで、自分のことしか考えないような顔つきをしている三郎が、そんな鶯《うぐいす》のまねなぞを思いついて、寂しい少年の日をわずかに慰めているのか。そう思うと、私はこの子供を笑えなかった。
「かあさんさえ達者《たっしゃ》でいたら、こんな思いを子供にさせなくとも済んだのだ。もっと子供も自然に育つのだ。」
と、私も考えずにはいられなかった。
私が地下室にたとえてみた自分の部屋《へや》の障子へは、町の響きが遠く伝わって来た。私はそれを植木坂の上のほうにも、浅い谷一つ隔てた狸穴《まみあな》の坂のほうにも聞きつけた。私たちの住む家は西側の塀《へい》を境に、ある邸《やしき》つづきの抜け道に接していて、小高い石垣《いしがき》の上を通る人の足音や、いろいろな物売りの声がそこにも起こった。どこの石垣のすみで鳴くとも知れないような、ほそぼそとした地虫《じむし》の声も耳にはいる。私は庭に向いた四畳半の縁先へ鋏《はさみ》を持ち出して、よく延びやすい自分の爪《つめ》を切った。
どうかすると、私は子供と一緒になって遊ぶような心も失ってしまい、自分の狭い四畳半に隠れ、庭の草木を友として、わずかにひとりを慰めようとした。子供は到底母親だけのものか、父としての自分は偶然に子供の内を通り過ぎる旅人に過ぎないのか――そんな嘆息が、時には自分を憂鬱《ゆううつ》にした。そのたびに気を取り直して、また私は子供を護《まも》ろうとする心に帰って行った。
安い思いもなしに、移り行く世相をながめながら、ひとりでじっと子供を養って来た心地《ここち》はなかった。しかし子供はそんな私に頓着《とんじゃく》していなかったように見える。
七年も見ているうちには、みんなの変わって行くにも驚く。震災の来る前の年あたりには太郎はすでに私のそばにいなかった。この子は十八の歳《とし》に中学を辞して、私の郷里の山地のほうで農業の見習いを始めていた。これは私の勧めによることだが、太郎もすっかりその気になって、長いしたくに取りかかった。ラケットを鍬《くわ》に代えてからの太郎は、学校時代よりもずっと元気づいて来て、翌年あたりにはもう七貫目ほどの桑を背負いうるような若者であった。
次郎と三郎も変わって来た。私が五十日あまりの病床から身を起こして、発病以来初めての風呂《ふろ》を浴びに、鼠坂《ねずみざか》から森元町《もりもとちょう》の湯屋まで静かに歩いた時、兄弟《きょうだい》二人《ふたり》とも心配して私のからだを洗いについて来たくらいだ。私の顔色はまだ悪かった。私は小田原《おだわら》の海岸まで保養を思い立ったこともある。その時も次郎は先に立って、弟と一緒に、小田原の停車場まで私を送りに来た。
やがて大地震だ。私たちは引き続く大きな異変の渦《うず》の中にいた。私が自分のそばにいる兄妹《きょうだい》三人の子供の性質をしみじみ考えるようになったのも、早川《はやかわ》賢《けん》というような思いがけない人の名を三郎の口から聞きつけるようになったのも、そのころからだ。
毎日のような三郎の「早川賢、早川賢」は家のものを悩ました。きのうは何十人の負傷者がこの坂の上をかつがれて通ったとか、きょうは焼け跡へ焼け跡へと歩いて行く人たちが舞い上がる土ぼこりの中に続いたとか、そういう混雑がやや沈まって行ったころに、幾万もの男や女の墓地のような焼け跡から
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