下をあげてそれを感じないものもない。岩倉、大久保、木戸らの柱石たる人々が廃藩置県直後の国を留守にし三年の月日を海の外に送っても成し遂げることのできなかったこの難関を突き破るために、時の政治家はあらゆる手段を取りはじめたとも言わるる。法律と法廷組織の改正、法律専攻の人士の養成、調査委員の設置、法律専門の外国人の雇聘《こへい》、法律研究生の海外留学、外国法律書の翻訳なぞは、皆この気運を語らないものはない。もとより条約改正の成否は内閣の死活にもかかわるところから、勢力のある政治家はいかなる代償を払ってもこの国家の大事業に当たろうとし、従前司法省にあった法律|編纂局《へんさんきょく》を外務省に移し、外人を特に優遇し、外人に無礼不法の挙があってもなるべくそれを問わないような時が、多くのものの目の前にやって来ていた。その修正案の主要な項目なるものも、外人に対して実に譲りに譲ったものであった。第一、日本法廷の裁判官中に三十人ないし四十人の外国人判事を入れ、また十一人の外国人検事を入るる事。第二、法律を改正し、法廷用語は日英両国の国語となす事。第三、外国人に選挙権を与うる事。これほどの譲歩をしてまでも諸外国公使の同意を得ようとした当局者の焦躁《しょうそう》から、欧風に模した舞踏会を開き、男女交際法の東西大差ないのを粧《よそお》おうとすることも起こって来た。仮装も国家のため、舞踏も国家のため、夜会も国家のため、その他あらゆる文明開化の模倣もまた国家のためであると言われた。交易による世界一統が彼の勇猛な目的を決定するものであるとすれば、我もまた勢いそれを迎えざるを得ない。かつては金銭を卑しみ、今は金銭を崇拝する、それは同じことであった。この気運に促されて、多くの気の鋭いものは駆け足してもヨーロッパに追いつかねばならなかった。あわれな世ではある、と半蔵は考えた。過ぐる十五、六年の間この国ははたして何を生むことができたろう。遠い昔に漢土の文物を受けいれはじめたころには、人はこれほど無力ではなかったとも考えた。まことの近《ちか》つ代《よ》を開くために生まれて来たような本居宣長の生涯なぞがこんな時に顧みられようはずもなかった。橋本|雅邦《がほう》は海軍省の製図に通うといい、狩野芳崖《かのうほうがい》も荒物屋の店に隠れた。
 おそらくもう一度来て見る機会はあるまいと思いながら、やがて悄然《しょうぜん》とした半蔵が東京を去ったのもこの旅である。とにもかくにも彼は二人の子にあい、その世話になる人々に礼を述べ、知人の家々を訪《たず》ねて旧交を温《あたた》めただけにも満足しようとした。帰路には彼はやはり歩き慣れた木曾街道をえらんで、板橋経由で郷里の方に向かった。旅するものには、いずこの宿場の変遷も時の歩みを思わせるころである。道すがらの彼の心はよく四人の男の子の方へ行った。庄屋風情《しょうやふぜい》ながらに物を学ぶ心の篤《あつ》かった先代吉左衛門が彼に呼びかけた心は、やがて彼が宗太にも正己にも森夫にも和助にも呼びかける心で、後の代を待つ熱いさびしい思いをその四人に伝えたいと願うからであった。ことに彼が未熟な和助を頼みにするというのも、それは彼とお民との間に生まれた末の子というばかりでなく、「和助は学問の好きなやつだで、あれはおれの子だで」とお粂《くめ》夫婦の前でも言って見せたくらいだからであった。せめて末の子だけには学ばせたい、とは彼が心からの願いであったのだ。どうだろう、その子もまた父の心を知らないとしたら。子は母親本位のもので、父としての彼はただ子の内部《なか》を通る赤の他人のような旅人に過ぎないとしたら。
「もうもう東京へ子供を見に行くことは懲りた。」
 とは彼が郷里に帰り着いてから家のものに言って見せた言葉だ。
 その年の夏は、いよいよ宗太夫婦との別居の履行された時であった。半蔵が和助を見に行って深く落胆して帰って来たというのも、子を思う心が深ければこそだ。隠宅の方へお民と共に引き移る日を迎えてからも、彼は郷里の消息を遠く離れている子にあてて書き送ることを忘れなかった。彼はその小楼を和助にも見せたいと書き、二階から見える山々の容《かたち》の雲に霧に変化して朝夕のながめの尽きないことを書き、伏見屋の三郎と梅屋の益穂《ますほ》とが本を読みに彼のもとへ通《かよ》って来るたびによく和助のうわさが出ることを書き、以前に伊那南殿村の稲葉家(おまんの生家《さと》)からもらい受けて来た杏《あんず》の樹《き》がその年も本家の庭に花をつけたが、あの樹はまだ和助の記憶にあるだろうかと書いた。時にはまた、本家の宗太も西|筑摩《ちくま》の郡書記を拝命して木曾福島の方へ行くようになったが交際交際で十円の月給ではなかなか足りそうもないと書き、しかし家の整理も追い追いと目鼻がついて来たことを書き、この家計の骨の折れる中でも和助には修業させたい一同の希望であるからそのつもりで身を立ててくれよと書き、どうかすると娵女《よめじょ》のお槇《まき》が懐妊したから和助もよろこべというようなことまで書いてそばにいるお民に笑われた。
「そんな、あなたのような、お槇の懐妊したことまで東京へ知らせてやるやつがあるもんですかね。」
 これには彼も一本参った。しかし古い家族の血統を重く考える彼としては、青山の血を伝えにこれから生まれて来るもののあるその新しいよろこびを和助にまで分けずにはいられなかった。そんなおとなの世界をのぞいて見るようなことが、どう少年の心を誘うであろうなぞと想《おも》って見る暇もないのであった。和助もあれで手紙を書くことはきらいでないと見えて、追い追いと父のもとへ便《たよ》りをしてよこす。それが学校の作文でも書くように半紙に書いてあるのを彼は何度も繰り返し読み、お民にもまた読み聞かせるのを何よりの心やりとする。彼は遠く離れていながらも、いろいろと和助を教えることを怠らなかった。手紙はどういうふうに書くものだとか、本はどういうものを読むがいいとかいうふうに。
 やがて成長《ひとなり》ざかりの子が東京の方で小学の課程を終わるころのことであった。半蔵は和助からの長い手紙を受け取った。それには少年らしい志望が認《したた》めてあり、築地《つきじ》に住む教師について英学をはじめたいにより父の許しを得たいということが認《したた》めてある。かねてそんな日の来ることを憂い、もし来たらどう自分の子を導いたものかと思いわずらってもいた矢先だ。とうとう、和助もそこへ出て来た。これまで国学に志して来た彼としては、これは容易ならぬ話で、彼自身にはいれなかった洋学を子にやらせて見たいは山々ではあったが、いかに言っても子は憐《あわれ》むべき未熟なもので、まだ学問の何たるを解しない。彼が東京の旅で驚いて来た過渡期の空気、維新以来ほとほと絶頂に達したかと思われるほど上下の人の心を酔わせるような西洋|流行《ばやり》を考えると、心も柔らかく感じやすい年ごろの和助に洋学させることは、彼にとっては大きな冒険であった。この子もまた時代の激しい浪《なみ》に押し流されて行くであろうか。それを思うと、彼は幾晩も腕組みして考えてしまった。もっとも、結局和助の願いをいれたが。
 本家土蔵の二階の上、あの静かな光線が鉄格子を通して西の窓からさし入るところは、中央に置き並べた継母と妻との二つの古い長持を除いたら、名実共に青山文庫であった。先代吉左衛門と半蔵と父子二代かかって集めた和漢の書籍は皆そこに置いてある。吉左衛門の残した俳書、岐岨古道記《きそこどうき》をはじめこの駅路に関する記録も多い。半蔵の代になって苦心して書物を集めることは、何十年来の彼の仕事の一つと言ってもよかったが、ことに万葉は彼の愛する古い歌集で、それに関する文献は彼の手の届くかぎり集められるだけ集めてある。階上の壁面によせて積み重ねてあるそれらの本箱の前をあちこちと歩き回る時ばかり、彼のたましいの落ちつくこともない。また、古人のいう夏の炉か冬の扇のような、今は顧みるものもなく、用うるところもなく、子にすら読まれないそれらの書物に対する時ばかり、後の代を待つ心を深くすることもない。家法改革のため、土蔵の階下《した》までも明け渡さねばならない時がやって来てからは、それに気がさして、彼はめったにあの梯子段《はしごだん》を登って行って見ることもない。

       三

「おいで。」
 呼ぶものは半蔵。呼ばれるものは馬籠《まごめ》の村の子供。もはや旧《ふる》い街道へも六月下旬の午後の日のあたって来ているころである。
「さあ、いいものあげるから、おいで。」
 とまた半蔵が呼んでも、子供は輪回しの遊びに夢中な年ごろで、容易に彼の方へ飛んで来ようともしない。おもちゃというおもちゃは多く手造りにしたもので間に合わせる馬籠の子供のあいだには、桶《おけ》の箍《たが》を回して遊び戯れることがまた流行《はや》って来た。この子供も手に竹の輪をさげている。
「こんなに呼んでも、来ないところを見ると、あれは賢いものじゃないと見える。」
 この「賢いものじゃないと見える」が子供を釣《つ》った。子供は彼のそばへ走り寄った。その時、彼は自分の袂《たもと》に入れていた巴旦杏《はたんきょう》を取り出して、青い光沢のある色も甘そうに熟したやつを子供の手に握らせた。そして彼の隠宅の方へとその子供を連れて行った。
 こんな調子で、半蔵は『童蒙入学門《どうもうにゅうがくもん》』や『論語』なぞを読ませに村の子供らを誘い誘いした。その時になっても彼は無知な百姓の子供を相手にして、教えて倦《う》むことを知らなかった。普通教育の義務年限も定められずにあるころで、村には読み書きすることのきらいな少年も多く、彼の周囲はまだまだ多くの迷信にみたされていた。どうかするとにわかに顔色も青ざめ、口から泡《あわ》を出す子供なぞがあると、それが幼いものの病気とは見られずに、狐《きつね》のついた証拠だと村の人から騒がれるくらいの時だ。
 静《しず》の屋《や》へ通《かよ》って来る半蔵が教え子はひとり馬籠生まれのものに限らなかった。一里も二里もある山道を草鞋《わらじ》ばきでやって来るような近村の少年もめずらしくない。湯舟沢からも、山口からも、あるいは妻籠《つまご》からも、馬籠には彼を師と頼んで何かと教えを受けに来る二、三の女の子もある。そういう中に置いて見ると、さすがは伏見屋の三郎と梅屋の益穂との進み方は目立った。この二人《ふたり》はすでに漢籍も『通鑑《つがん》』を読む。いつのまにか少年期から青年期に移る年ごろにも達している。三郎らに次いでは、村社|諏訪《すわ》分社の禰宜《ねぎ》松下千里の子息にあたる千春が荒町から通って来る。和助と同年の千春もすでに十五歳だ。「お師匠さま、お師匠さま」と言って慕って来るこれらの教え子の書体までが自分のに似通うのを見るたびに、半蔵は東京の方にある和助のことをよく思い出すのであった。
 彼はお民に言った。
「妙なものだなあ。おれなぞはおまえ、明日を待つような量見じゃだめだというところから出発した。明日は、明日はと言って見たところで、そんな明日はいつまで待っても来やしない。今日はまた、またたく間《ま》に通り過ぎる。過去こそ真《まこと》だ――それがおまえ、篤胤《あつたね》先生のおれに教えてくだすったことさ。だんだんこの世の旅をして、いろいろな目にあううちに、いつのまにかおれも遠く来てしまったような気がするね。こうして子供のことなぞをよく思い出すところを見ると、やっぱりおれというばかな人間は明日を待ってると見える。」
 こんな寝言もちんぷん、かんぷんとしか聞こえないお民の耳には、めずらしくも禁酒を思い立ったという夫の言葉の方が彼女にはうれしかった。
「なあ、お民。どうも酒はよくない。飲み過ぎるとおれは眠られない。こないだは、宗太や親類には内証で堅い誓約を破ってしまった。おれも我慢がしきれなかったからさ。さあ、それから眠られない。五晩も六晩もそんな眠られないことが続くうちに、しまいにはおれも書き置きを書こうかとまで
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