めて、震えるほど力を入れていた。無言の悲しみを制《おさ》えるかのように。
 その晩はもはや宵《よい》から月のあるころではなかった。店座敷の障子にあの松の影の映って見えたころは、毎晩のようにお粂もよく裏庭の方へ歩きに出て、月の光のさし入った木の下なぞをあちこちあちこちとさまよった。それは四、五日前のことでお民も別に気にもとめずにいた。その晩のように月の上るのもおそいころになって、また娘が勝手口の木戸から屋外《そと》へ歩きに出るのを見ると、お民は嫁入り前のからだに風でも引かせてはとの心配から、土間にある庭下駄もそこそこに娘を呼び戻《もど》しに出た。底青く光る夜の空よりほかにお民の目に映るものもない。勝手の流しもとの外あたりでは、しきりに虫がなく。
「お粂。」
 その母親の呼び声を聞きつけて、娘は暗い土蔵の前の柿《かき》の木の下あたりから引き返して来た。
 その翌日も青山の家のものは事のない一日を送った。夕飯後のことであった。下男の佐吉は裏の木小屋に忘れ物をしたと言って、それを取りに囲炉裏ばたを離れたぎり容易に帰って来ない。そのうちに引き返して来て、彼が閉《し》めて置いたはずの土蔵の戸が閉ま
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