地方では、あの年の平田入門者なるものは一年間百二十人の多くに上ったが、明治三年には十九人にガタ落ちがして、同四年にはわずかに四人の入門者を数える。北には倉沢義髄《くらさわよしゆき》を出し、南には片桐春一《かたぎりしゅんいち》、北原稲雄、原|信好《のぶよし》を出し、先師遺著『古史伝』三十一巻の上木頒布《じょうぼくはんぷ》に、山吹社中発起の条山《じょうざん》神社の創設に、ほとんど平田研発者の苗床ともいうべき谷間《たにあい》であった伊那ですらそれだ。これを中央に見ても、正香のいわゆる「政治を高めようとする」祭政一致の理想は、やがて太政官《だじょうかん》中の神祇官を生み、鉄胤先生を中心にする神祇官はほとんど一代の文教を指導する位置にすらあった。大政復古の当時、帝《みかど》には国是の確定を列祖神霊に告ぐるため、わざわざ神祇官へ行幸したもうたほどであったが、やがて明治四年八月には神祇官も神祇省と改められ、同五年三月にはその神祇省も廃せられて教部省の設置を見、同じ年の十月にはついに教部文部両省の合併を見るほどに推し移って来る。今は師も老い、正香のような先輩ですら余生を賀茂の方に送ろうとしている。そう
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