た。

       五

 正香は一晩しか半蔵の家に逗留《とうりゅう》しなかった。
「青山君、わたしも賀茂の方へ行って、深いため息でもついて来ますよ。」
 との言葉を残して、翌朝早く正香は馬籠《まごめ》を立とうとしていた。頼んで置いた軽尻馬《からじりうま》も来た。馬の口をとる村の男はそれを半蔵の家の門内まで引き入れ、表玄関の式台の前で小付け荷物なぞを鞍《くら》に結びつけた。
「お母《っか》さん、暮田さんのお立ちですよ。」
 と娘に呼ばれて、お民も和助(半蔵の四男)を抱きながらそこへ飛んで出て来る。
「オヤ、もうお立ちでございますか。中津川へお寄りでしたら、浅見の奥さん(景蔵の妻)へもよろしくおっしゃってください。」
 とお民は言った。
 半蔵はじめ、お民、お粂から下男の佐吉まで門の外に出て馬上の正香を見送った。動いて行く檜笠《ひのきがさ》が坂になった馬籠の町の下の方に隠れるまで見送った。旧本陣の習慣として、青山の家のものがこんなに門の前に集まることもめったになかったのである。その時、半蔵は正香の仕えに行く賀茂両社の方のことを娘に語り聞かせた。その神社が伊勢《いせ》神宮に次ぐ高い格式の
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