は魚田《ぎょでん》にして出した。でも、こんな山家料理がかえって正香をよろこばせる。
「奥さんの前ですが、」と正香は一口飲みかけた盃を膳の上に置いて、「いつぞや、お宅の土蔵のなかに隠していただいた時、青山君が瓢箪《ふくべ》に酒を入れて持って来て、わたしに飲ませてくれました。あの時の酒の味はよほど身にしみたと見えて、伊那の方でも思い出し、京都や東京の方に行ってる時も思い出しました。おそらく、わたしは一生あの酒の味を忘れますまい。」
「あれから、十年にもなりますものね。」と半蔵も言った。
 お粂がその時、吸い物の向こう付《づ》けになるようなものを盆にのせて持って来た。お民はそれを客にすすめながら、
「蕨《わらび》でございますよ。」
「今時分、蕨とはめずらしい。」正香が言う。
「これは春先の若い蕨を塩漬《しおづ》けにして置いたものですが、塩をもどして、薄味で煮て見ました。御酒の好きな方には、お口に合うかもしれません。一つ召し上がって見てください。」
「奥さん、この前もわたしは中津川の連中と一緒に一度お訪《たず》ねしましたが、しかしお宅の皆さんにしみじみお目にかかるのは、今度初めてです。よいお嬢
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