。言うところは、官有林規則のお請けをせよとの一点張りである。その過酷を嘆いて、ひたすら寛大な処分を嘆願しようとすれば、半蔵ごときは戸長を免職せられ、それにも屈しないで進み出る他の総代のものがあっても、さらに御採用がない。しいて懇願すれば官吏の怒りに触れ、鞭《むち》で打たるるに至ったものがあり、それでも服従しないようなものは本県聴訟課へ引き渡しきっと吟味に及ぶであろうとの厳重な口達をうけて引き下がって来る。その権威に恐怖するあまり、人民一同前後を熟考するいとまもなく、いったんは心ならずも官有林のお請けをしたのであった。
「一の山林事件は、百の山林事件さ。」
 と正香は半蔵の語ることを聞いたあとで、嘆息するように言った。


「暮田さん、せっかくおいでくだすっても、ほんとに、何もございませんよ。」
 と言いながら、お民も客のいるところへ酒をすすめに来た。彼女は客や主人の膳《ぜん》の上にある箸《はし》休めの皿《さら》をさげて、娘お粂が順に勝手の方から運んで来るものをそのかわりに載せた。遠来の客にもめずらしく思ってもらえそうなものといえば、木曾川の方でとれた「たなびら」ぐらいのもの。それを彼女
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