母と共に南殿村の稲葉の家に養われたのがおまんだ。婦人ながらに漢籍にも通じ、読み書きの道をお粂に教え、時には『古今集』の序を諳誦《あんしょう》させたり、『源氏物語』を読ませたりして、筬《おさ》を持つことや庖丁《ほうちょう》を持つことを教えるお民とは別の意味で孫娘を導いて来たのもまたおまんだ。年をとればとるほど、彼女は祖父孫四郎の武士|気質《かたぎ》をなつかしむような人である。
このおまんは継母として、もう長いこと義理ある半蔵をみまもって来た。半蔵があの中津川の景蔵や同じ町の香蔵などの学友と共に、若い時分から勤王家の運動に心を寄せていることを家中のだれよりも先に看破《みやぶ》ったくらいのおまんだから、今さら半蔵がなすべきことをなして、そのために福島支庁からきびしい督責をこうむったと聞かされても、そんなことには驚かない。ただただおまんは、吉左衛門や金兵衛が生前によく語り合ったことを思い出して、半蔵にこの青山の家がやりおおせるか、どうかと危ぶんでいる。
お民を前に置いて、おまんは縫いかけた長襦袢《ながじゅばん》のきれを取り上げながら、また話しつづけた。目のさめるような京染めの紅絹《もみ》の
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