心は、日ごろから嘆願書提出のことに同意してくれているが、しかし福島支庁の権判事《ごんはんじ》がかわりでもしないうちはだめだというらしいあの寿平次の方へ行った。
彼は言って見た。
「相変わらず、寿平次さんは高見の見物だろうか。」
彼の心は隣家伏見屋の伊之助の方へも行った。
「伊之助さんか。あの人は目をつぶっておれと言う。このおれにも――見るなと言う。」
彼の心はまた、村の万福寺の松雲和尚の方へも行った。
「和尚さまと来たら、用はないと言うそうな。」
しかし、彼はあの松雲たりとも禅僧らしく戦おうとはしていることを知っていた。
五月の森の光景は行く先にひらけた。檜《ひのき》欅《けやき》にまじる雑木のさわやかな緑がまたよみがえって、その間には木曾路らしいむらさきいろの山つつじが咲き乱れていた。全山の面積およそ三十八万町歩あまりのうち、その十分の九にわたるほどの大部分が官有地に編入され、民有地としての耕地、宅地、山林、それに原野をあわせてわずかにその十分の一に過ぎなくなった。新しい木曾谷の統治者が旧尾州領の山地を没取するのに不思議はないというような理屈からこれは来ているのか、郡県政治の
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