たことのない彼が扇子を取り出して子の面《かお》を打ち励まそうとまでした人も彼である。ある時は静の屋に隠れていて、静かに見れば物皆自得すと言った古人の言葉を味わおうと思い、ある時は平田篤胤没後の門人がこんなことでいいのかと考え、まだ革新が足りないのだ、破壊も足りないのだと考えるのも、その同じ彼だ。
やがて残った暑さの中にも秋気が通って来て、朝夕はそこいらの石垣《いしがき》や草土手で鳴く蟋蟀《こおろぎ》の声を聞くようになった。ある夜の明けがた、半蔵は隠宅の下座敷にお民と枕《まくら》をならべていて不思議な心地《ここち》をたどった。その時の彼は妻にも見られないように家を抜けて、こっそり町へ酒を買いに出た人である。大戸がある。潜《くぐ》り戸《ど》がある。杉《すぎ》の葉の円《まる》く束にしたのが街道に添うた軒先にかかっている。戸をたたくと内には人が起きていて、彼のために潜り戸をあけてくれる。そこは伏見屋の店先で、二代目伊之助がみずから樽《たる》の前に立ち、飲み口の栓《せん》を抜いて、流れ出る酒を桝《ます》に受け、彼の方から差し出した徳利にそれを移して売ってくれる。それまではよかったが、彼は隠し持
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