ことを思い立ち、「木曾谷山地官民有区別の儀につき嘆願書」なるものを懐《ふところ》にして、最初に上京したのは明治十五年の九月であった。
正己らが用意して行ったその第三回目の嘆願書も、趣意は以前と大同小異で、要するに木曾谷山地の大部分を官有地と改められては人民の生活も立ち行きかねるから従来|明山《あきやま》の分は人民に下げ渡されたいとの意味にほかならない。もっとも第二回目に十六か村の戸長らが連署してこの事件を持ち出した時は、あだかも全国に沸騰する自由民権の議論の最高潮に達したころであるから、したがって木曾谷人民の総代らも「民有の権」ということを強調したものであったが、今度はそれを言い立てずに、わざわざ「権利のいかんにかかわらず」と書き添えた言葉も目立った。なお、いったん官有地として処分済みの山林も古来の証跡に鑑《かんが》み、人民の声にもきいて、さらに民有地に引き直された場合は他地方にも聞き及ぶ旨《むね》を申し立て、その例として飛騨国、大野、吉城《よしき》、益田《ましだ》の三郡共有地、および美濃国は恵那《えな》郡、付知《つけち》、川上、加子母《かしも》の三か村が山地の方のことをも引き合いに
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