蔵らにも考えられることであった。
 五平は半蔵の方を見て、
「さあ、これが尾州の方へ聞こえたら、旧藩の人たちもどう言いますかさ。支庁のやり口が本当で、木曾の人民の方が無理だと言いますかさ。なんでもわたしの聞いたところじゃ、版籍奉還ということはだいぶ話が違う。版地民籍の奉還と言いましたら、土地も人民も朝廷へ返上することだと、わたしは承知してます。万民を王化に浴させたい。あの尾州あたりが他藩に率先して朝廷へ返上したのも、その趣意から出たことじゃありませんか。こんなにけが人を出してもかまわないつもりで、旧領の山地を返上したわけじゃありますまいに。」
 こんな話の出た後、五平は半蔵の方から預かって置いた山林事件用の書類をそこへ取り出した。半蔵の起草した筑摩県庁あての嘆願書は十五人の総代の手を回って、五平の手もとまで返って来ている。藪原村の戸長を筆頭にして、一同の署名と調印とを済ましたものがそこにある。嘆願書とした文字の上には、うやうやしく「上」と記し「恐れながら書付をもって願い上げ奉り候《そうろう》御事」の書き出しが読まれる。従来木曾谷山地の処置については享保年度からの名古屋一藩かぎりの御制度
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