ませんな。これじゃ、木曾の人民も全くひどい。まるで水に離れた魚のようなものです。」
 というと、いかにもこの人は適切なたとえを言い当てたように聞こえるが、その実、魚にはあまり縁がない。水に住むと言えば、この人に親しみのあるのは、池に飼う鯉《こい》か、王滝川まで上って来る河魚《かわうお》ぐらいに限られている。たまにこの山里へかつがれて来る塩辛い青串魚《さんま》なぞは骨まで捨てることを惜しみ、炉の火にこんがりとあぶったやつを味わって見るほど魚に縁が遠い。そのかわり、谷へ来る野鳥の類なら、そのなき声をきいただけでもすぐに言い当てるほど多くの鳥の名を諳記《そらん》じていて、山林の枯れ痛み、風折れ、雪折れ、あるいは枝卸しなどのことには精通していた。
 いったい、こんな山林事件を引き起こした木曾谷に、これまで尾州藩で置いた上松の陣屋があり、白木番所があり、山奉行があり、山守《やまもり》があり、留山見回りなぞがあって、これほど森林の保護されて来たというはなんのためか。そこまで話を持って行くと、五平にも半蔵にもそう一口には物が言えなかった。尾州藩にして見ると、年々木曾山から切り出す良い材木はおびただし
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