のであったことを思い出した。その時の師岡正胤が扇面に書いて彼に与えたものは、この人にしてこの歌があるかと思われるほどの述懐で、おくれまいと思ったことは昔であるが、今は人のあとにも立ち得ないというような、そんな思いの寄せてあったことをも思い出した。
 やがて彼は床を離れて、自分で二階の雨戸をくった。二つある西と北との小さな窓の戸をもあけて見たが、まだそこいらは薄暗いくらいだった。階下の台所に近い井戸のそばで水垢離《みずごり》を取り身を浄《きよ》めることは、上京以来ずっと欠かさずに続けている彼が日課の一つである。その時が来ても、おそろしく路《みち》に迷った夢の中のこころもちが容易に彼から離れなかった。そのくせ気分ははっきりとして来て、何を見ても次第に目がさめるような早い朝であった。雨も通り過ぎて行った。


「ゆうべは多吉さんもおそかったようですね。」
「青山さん、さぞおやかましゅうございましたろう。吾夫《うち》じゃあんなにおそく帰って来て、戸をたたきましたよ。」
 問う人は半蔵、答える人は彼に二階の部屋《へや》を貸している多吉の妻だ。その時のお隅《すみ》の挨拶《あいさつ》に、
「まあ聞い
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