で動かないものは長州兵のみであった。明治七年一月には、ついに征韓派たる高知県士族|武市熊吉《たけちくまきち》以下八人のものの手によって東京|赤坂《あかさか》の途上に右大臣岩倉|具視《ともみ》を要撃し、その身を傷つくるまでに及んで行った。そればかりではない。この勢いの激するところは翌二月における佐賀県愛国党の暴動と化し、公然と反旗をひるがえす第一の烽火《のろし》が同地方に揚がった。やがてそれは元参議江藤新平らの位階|褫奪《ちだつ》となり、百三十六人の処刑ともなって、闇《やみ》の空を貫く光のように消えて行ったが、この内争の影響がどこまで及んで行くとも測り知られなかった。
時には馬、時には徒歩の旅人姿で、半蔵が東京への道をたどった木曾街道の五月は、この騒ぎのうわさがややしずまって、さながら中央の舞台は大荒れに荒れた風雨のあとのようだと言わるるころである。
四
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「塩、まいて、おくれ。
塩、まいて、おくれ。」
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木曾街道の終点とも言うべき板橋から、半蔵が巣鴨《すがも》、本郷《ほんごう》通りへと取って、やがて神田明神《かんだみ
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