見せ、大使帰朝に至るまではやむを得ない事件のほかは決して改革しないとの誓言のあることを言い、今この誓言にそむいて、かかる大事を決行するの不可なるを説き、大使帰朝の後を待てと言いさとした。隆盛は寡言《かげん》の人である。彼は利秋のように言い争わなかった。しかしもともと彼の武人|気質《かたぎ》は戊辰《ぼしん》当時の京都において慶喜の処分問題につき勤王諸藩の代表者の間に激しい意見の衝突を見た時にも、剣あるのみの英断に出、徳川氏に対する最後の解決をそこに求めて行った人である。その彼は容易ならぬ周囲の形勢を見、部下の要求の制《おさ》えがたいことを知り、後には自ら進んで遣韓大使ともなり朝鮮問題の解決者たることを志すようになった。岩倉大使一行の帰朝、征韓論の破裂、政府の分裂、西郷以下多くの薩人の帰国、参議|副島《そえじま》、後藤《ごとう》、板垣《いたがき》、江藤《えとう》らの辞表奉呈はその結果であった。上書してすこぶる政府を威嚇《いかく》するの意を含めたものもある。旗勢をさかんにし風靡《ふうび》するの徒が辞表を奉呈するものは続きに続いた。近衛兵《このえへい》はほとんど瓦解《がかい》し、三藩の兵のうち
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