のにも別れ、小屋の入り口に鎌《かま》を研《と》いでいた佐吉にも声をかけて置いて、まず付き添いのもののいる別室の方に父が目をさますまで待った。持って生まれた濃情が半蔵のからだからこんな気の鬱《うっ》する病を引き出したのか、あるいは病ゆえにこんなに人恋しく思うのであるか、いずれともお民には言えないとのことであったが、彼女は夫が遠く離れている子にもしきりにあいたがって、東京の和助のうわさの出ない日もないことなぞを娘に語り聞かせる。お民はまた、この木小屋に移ってからの半蔵に部屋のなかを人知れず歩き回る癖のついたことを言って、あちこち、あちこちと往《い》ったり来たりする夫の姿を見かけるのは実に気の毒だと語るから、それは父の運動不足からであろうとお粂が母に答えて見せた。そのうちに裏の竹藪へ来る風の音にでも目をさましたかして、半蔵の呼ぶ声がする。お粂は母について父の臥《ね》たり起きたりする部屋にはいった。親子のものが久しぶりでの対面はその座敷牢の内であった。
その時、お粂は考えて、言葉にも挙動にもなるべく父を病人扱いにしないようにした。それが半蔵の心をよろこばせた。彼は物憂《ものう》い幽閉の身を忘れたかのように、お民やお粂に向かって何か物を書いて見たいと言い、筆紙の類《たぐい》を入れてくれと頼んだ。
「それがいい。」とお粂も言った。「何か書いてごらんなさるがいい。紙や筆ぐらいは入れてあげますよ。お父《とっ》さんの気が晴れるようになさるのが何よりですからね。」
お粂は人手を借りるまでもなく、自分自身に父の頼むものを整えようとして木小屋を出た。彼女は祖母たちのいる裏二階へ行ってそのことを話して見ると、そういうたぐいのものは皆隠宅(静《しず》の屋《や》)の方にしまい込んであった。その足で彼女は隣家の伏見屋まで頼みに行って、父の気に入りそうな紙の類を分けてもらうことにした。伏見屋には未亡人《みぼうじん》のお富《とみ》がある。この人は先代伊之助が生前に愛用したという形見の筆なぞをも探《さが》し出して貸してくれたので、お粂はそれらの筆紙を小脇《こわき》にかかえながら木小屋へ引き返して来た。硯《すずり》や墨は裏二階にあるもので間に合わせた。彼女は父のためにその墨を磨《す》って、次第に濃くなって行く墨のにおいをかぎながら、多くの楽しい日を父と共に送った娘の昔をお民のそばに思い出していた。
半蔵がそのさびしい境涯《きょうがい》の中で、古歌なぞを紙の上に書きつけ、忍ぶにあまる昔の人の述懐を忍んでわずかに幽閉中の慰めとするようになったのも、その時からであった。お粂が伏見屋から分けてもらって来た紙の中には、めずらしいものもある。越前《えちぜん》産の大高檀紙《おおたかだんし》と呼ぶものである。先代伊之助あたりののこして置いて行ったものと見えて、ちょっとこの山家で手に入りそうもない品であるが、ほどのよい古びと共に、しぼの手ざわりとてもなかなかにゆかしい料紙である。半蔵は思うところをその紙の上に書きつけたのであった。
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以[#下]不[#レ]勝[#二]憂国之情[#一]濺[#二]慷慨之涙[#一]之士[#上]、
為[#二]発狂之人[#一]。豈其不[#レ]悲乎。無識人之
眼亦已甚矣。
[#ここから20字下げ]観斎
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観斎とは、静の屋あるいは観山楼にちなんだ彼が晩年の号である。お粂の目には、父が筆のはこびにすこしの狂いも見いだされなかった。墨痕淋漓《ぼっこんりんり》としたその真剣さはかえって彼女の胸に迫った。
お粂も実はそう長く馬籠にとどまれないで、二、三日の予定で父を見舞いに来た人であった。めったにひとりで家を離れたためしのない彼女はその方のことも心にかかり、それに馬籠と木曾福島との間は途中一晩は泊まらねばならなかったから、この往復だけでも女の足には四日かかった。そこで生家《さと》に着いた三日目の午後には彼女は父にも暇乞《いとまご》いして、せめて妻籠泊まりで帰りの路《みち》につこうとしたが、この暇乞いする機会をとらえることがまた容易でなかった。というのは、父の見舞いに来る人も、来る人も、しまいには皆隠れるように消えて行くというふうで、その父のさびしがりようがお粂にも暇を告げさせないからであった。
結局、お粂もまた隠れるようにして父から隠れて行くのほかはなかったのである。彼女はそれとなく暇乞いのつもりで、しばらく座敷牢の外に時を送った。秋はもはや木小屋の周囲にも深い。父の回復を祷《いの》ろうとして裏の稲荷《いなり》へ願掛けした母お民は露にぬれたお百度の道を踏むに余念もなく、畠《はたけ》へ通う下男の佐吉も病める旧主人を思い顔である。その辺はお粂が弟たちにとっても幼い時分のよい隠れ場処であったところで、木小屋の前の空地《あきち
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