せながら訪《たず》ねて来たことを覚えている。あれからの彼女は旦那を助けて家を整理するかたわら、日夜|兄妹《きょうだい》二人《ふたり》の子供の養育に心を砕いたが、その兄の方の子がもはや数え歳《どし》の十二にもなった。朝に晩に彼女の言い暮らしたのは、これまで丹精《たんせい》して来た植松の家にゆっくり父を迎えたいことであった。今となっては残念ながらそれもかなわない。五十余年の涙の多い生涯《しょうがい》を送った父が最後に行きついたところは、そんな座敷牢《ざしきろう》であるかと思うと、彼女は何かこう自分の内にもある親譲りのさわりたくないものに否《いや》でも応でもさわるような気がして、その心から言いあらわしがたい恐怖を誘われた。
馬籠にある彼女の生家《さと》も変わった。彼女は旧《ふる》い屋敷の内の裏二階まで行って、久しぶりで祖母のおまんや嫂《あによめ》のお槇《まき》と一緒になることができた。父の看護に余念のないという母お民も、彼女の着いたことを聞いて、木小屋の方から飛んでやって来た。ちょうど父はよく眠っているところだと言って、木小屋に働いている下男佐吉に気をつけてもらうよう言い置いて来たと語り聞かせるのもお民だ。父の病室が造られる前後の騒ぎの夢のようであったことから、村の人がそれぞれ手分けをして看護に来てくれるというのは、これもお師匠さまと言われた徳であろうかと語り聞かせるのもまたお民だ。お粂の見舞いに来たことは、だれよりもこの母を力づけた。というのは、おまんもすでに七十八歳の老婦人ではあるが、日ごろから思ったことを口にするような人ではないから、半蔵の乱心についてはどうあさましく考えているやも測りがたく、お槇はまた前掛けをかけたぐらいでは隠し切れないほどの身重になっていて、肩で息をしているような人にそう働かせることもならないからであった。そういう中で、半蔵を看護するお民の苦心も一通りではなかった。
お民は娘に言った。
「でも、お粂、あれでお父《とっ》さんもそうあばれるようなことはなさらない。最初のうちは村の衆も心配して、二人ぐらいずつ交代で夜も昼も詰め切りに詰めていましたよ。この節だって、お前、毎日のようにだれかしら来てはくれますがね、最初のうちのようなことはなくなりました。お父《とっ》さんは本を入れてくれろというから、入れてあげると、半日すわって読んでいて、口もおききなさらないことがある。」
「まあ、半蔵さんがあんなことになろうとはだれも思わなかったッて、妻籠の伯父《おじ》さんもそう言っておいででした。お酒がすこしいき過ぎましたねえ。」
とお粂も答えて、母と共に嘆息した。
隣家伏見屋の酒店に番頭格として働いている清助がそこへ顔を見せた。新酒売り出しのころにもかかわらず、昔を忘れない清助はそのいそがしいなかにわずかの間を見つけ、裏づたいに酒蔵を回っては青山方の木小屋へ見回りに来る。お粂の着いたことも清助は佐吉から聞いて来たという。
「いやはや、今度という今度はわたしも弱りました。粂さまは何も御存じないでしょうが、亀屋《かめや》(栄吉のこと)と二人で憎まれ役でさ。お師匠さまにはあの隠宅もありますし、これがただの気鬱症《きうつしょう》か何かなら、だれもあんな暗いところへお師匠さまを入れたかありません。お寺へ火をつけるようなことがあったものですから、それから大《おお》やかまし。おまけに、ちょうど馬籠の祭礼の最中で、皆あわててしまいましたわい。」
清助は清助らしいことをかき口説《くど》いた。薬の力で父がぐっすり眠っているという間、お粂は裏二階に足を休めたが、やがて母や清助に伴われながら木小屋の方への降り口にある深い井戸について、土蔵のそばの石段を降りた。
北と西は木戸だ。三棟《みむね》ある建物のうしろには竹の大藪《おおやぶ》がめぐらしてあって、東南の方角にあたる石垣《いしがき》の上には母屋《もや》の屋根が見上げるほど高い位置にある。これが馬籠旧本陣の裏側にあたるところで、石垣のすぐ下に掘ってある池も深い。武家と公役との宿泊や休息の場処に当てられた昔は、いざと言えば裏口へ抜けられる後方の設備の用心深さを語るかのような、古い陣屋風の意匠がそこに残っている。
三棟ある建物のうち、その二棟は米倉として使用し来たったところであり、それに連なる一棟が木小屋である。小屋とは言いながら、そこは二階建ての古い建物で、間口も広く造ってある。中央の土間もかなり広く取ってある。下男の佐吉が長いこと自分の世界として働いて来たのもそこで、山から背負って来る薪《まき》、松葉の類は皆その小屋に積まれ、藁《わら》もそこにたくわえられた。父半蔵の座敷牢はそんな竹の大藪を背後《うしろ》にしたところに隠れていた。
お粂は母と共に、清助が隣家の方へ裏づたいに帰って行く
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