四月にもおれのところへさげて来てくれたッけが。」
「なんでも、あの人はあなたの禁酒したことを知らなかったんですとさ。どうも失礼した、お師匠さまには内証にしてくれなんて、そう言って、これは煮ものにでも使うようにッて置いて行きましたよ。」
 こんな言葉をかわした後、間もなくお民はしたくのできた膳《ぜん》を台所から運んで来た。憔悴《しょうすい》した夫のためにつけた一本の銚子《ちょうし》をその膳の上に置いた。
「こりゃ、めずらしい。お民はほんとうにおれに飲ましてくれるのかい。」
 半蔵はまるでうそのように好きな物にありついて、盃にあふれるその香気《かおり》をかいだ。そして元気づいた。お民はその夫の顔をながめながら、
「そう言えば、こないだというこないだは、わたしもびッくりしましたよ。」
「うん、あの話か。あんなことは、めったにないやね。なにしろ、お前、変なやつが来てこの庭のすみに隠れているんだろう。あいつは恐ろしいやつさ。このおれをねらっているようなやつさ。おれもたまらんから、古い杉ッ葉に火をつけて、投《ほう》りつけてくれた。もうあんなものはいないから安心するがいい。」
「ほんとに、あなたも気をつけてくださらなけりゃ……」
 実際、半蔵にはそんなことも起こって来ていた。
 つましくはあるが、しかし楽しい山家風な食事のうちに日は暮れて行った。街道筋に近く住むころともちがい、本家の方ではまだ宵《よい》の口の時刻に、隠宅の周囲《まわり》はまことにひっそりとしたものだ。谷の深さを思わせるようなものが、ここには数知れずある。どうかすると里に近く来て啼《な》く狐《きつね》の声もする。食後に、半蔵は二階へも登らずに、燈火《あかり》のかげで夜業《よなべ》を始めたお民を相手に書見なぞしていたが、ふと夜の空気を通して伝わって来る遠い人声を聞きつけて、両方の耳に手をあてがった。
「あ――だれかおれを呼ぶような声がする。」
 と彼はお民に言ったが、妻には聞こえないというものも彼には聞こえる。彼はまた耳を澄ましながら、じっとその夜の声に聞き入った。


 十五夜には、半蔵も村の万福寺の松雲和尚《しょううんおしょう》から月見の客の一人《ひとり》に招かれた。今さらここにことわるまでもなく、青山の家と万福寺との関係は開山のそもそもからで、それほど縁故の深い寺ではあるが、例の神葬改典以来は父祖の位牌《いはい》も多く持ち帰り、わずかに万福寺の開基と中興の開基との二本の位牌を残したのみで、あの先祖道斎が建立《こんりゅう》した菩提寺《ぼだいじ》も青山の家からは遠くなった。こんな事情があるにもかかわらず住持の松雲はわざわざ半蔵の隠宅まで案内の徒弟僧をよこすほどの旧《むかし》を忘れない人である。
 招かれて行く時刻が来た。半蔵は隠宅を出た。まだ日も暮れきらないうちであったが、空には一点の雲もなく、その夜の月はさぞと、小集の楽しさも思われないではない。しかし、彼の足は進まなかった。妙に心も寒かった。ためらいがちに、彼はその寺道を踏んで行った。そして、しばらくぶりで山門の外の石段を登った。数体の観音《かんのん》の石像の並ぶ小高い石垣《いしがき》の斜面に沿うて、万福寺の境内へ出た。そこにひらける本堂の前の表庭は、かつて彼の発起で、この寺に仮の教場を開いたころの記憶の残る場所である。経王石書塔の文字の刻してある石碑が立つあたり、古い銀杏《いちょう》の樹《き》のそばにある鐘つき堂の辺、いずれも最初の敬義学校の児童が遊び戯れた当時を語らないものはない。
「おゝ、お師匠さまが見えた。」
 という寺男の声を聞いて、勝手を知った半蔵は庫裡《くり》の囲炉裏ばたの方から上がった。彼は松雲が禅僧らしい服装《みなり》でわざわざその囲炉裏ばたまで出て迎えてくれるのにもあった。やがて導かれて行ったところは住持の居間である。古い壁に達磨《だるま》の画像なぞのかかった方丈である。そこにはすでに招かれて来ている二、三の先着の客もある。旧|組頭《くみがしら》笹屋庄助《ささやしょうすけ》、それから小笹屋《こざさや》勝七の跡を相続した勝之助の手合いだ。馬籠町内でもことに半蔵には気に入りの人たちだ。こんな顔ぶれを集めての催しである上に、主人の松雲は相変わらずの温顔で、客に親疎を問わず、好悪《こうお》を選ばずと言ったふうの人だ。
 まず寺にも異状はない。そのことに、半蔵はやや心を安んじた。柿《かき》、栗《くり》、葡萄《ぶどう》、枝豆《えだまめ》、里芋《さといも》なぞと共に、大いさ三寸ぐらいの大団子《おおだんご》を三方《さんぼう》に盛り、尾花《おばな》や女郎花《おみなえし》の類《たぐい》を生けて、そして一夕を共に送ろうとするこんな風雅な席に招かれながら、どうして彼は滑稽《こっけい》な、しかもまじめな心配に息をはずませ、危害で
前へ 次へ
全123ページ中102ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング