行った時に聞きつけた。このお頭《かしら》は、諸講中の下げ札や御休処《おやすみどころ》とした古い看板のかかった茶屋の軒下を出たりはいったりして、そこに彼を出迎えていてくれたのだ。伏見屋金兵衛の記念として残った芭蕉《ばしょう》の句塚《くづか》までが、その木曾路の西の入り口に、旅人の目につく路傍の位置に彼を迎えるように見えている。
 伏見屋と言えば、伊之助はその時もはやこの世にいない人であった。半蔵が飛騨の山の方で伊之助の亡《な》くなったのを聞いて来たのはその年の暑いさかりのころに当たる。彼は伏見屋からの通知を受け取って見て、かねて病床にあった伊之助が養生もかなわず、にわかに病勢の募ったための惜しい最期であったことを知った。享年四十五歳。遺骸《いがい》は故人の遺志により神葬にして万福寺境内の墓地に葬る。なお、長男一郎は二代目伊之助を襲名するともその通知にあった。とうとう、半蔵は伊之助の死に目にもあわずじまいだ。馬籠荒町の村社|諏訪《すわ》分社の前まで帰って来た時、彼は無事な帰村を告げに参詣《さんけい》したり、禰宜《ねぎ》松下千里の家へも言葉をかけに立ち寄ったりすることを忘れなかったが、かつて駅路一切の奔走を共にしたあの伊之助が草葉の陰にあるとは、どうしても彼にはまことのように思われもしなかった。
 馬籠の仲町近くまで帰ると、彼はもう幾人かの成人した旧《ふる》い教え子にあった。
「お師匠さま。」
 と呼んでいち早く彼の姿を見つけながら走り寄る梅屋の三男|益穂《ますほ》があり、伏見屋の三男三郎がある。その辺は仮の戸長役場にも近く、筑摩《ちくま》県と長野県とに分かれた信濃の国の管轄区域を合併して郡県の名までが彼の留守中に改まった。これは馬籠というところかの顔つきで、背中に荷物をつけながら坂になった町を登って来る供の六三郎は、どうかすると彼におくれた。彼は途中で六三郎の追いつくのを待ちうけて、戸長役場の前を往還側に建てられてある標柱のところへ行って一緒に立った。
 その高さ九尺ばかり。表面には改正になった郡県の名が筆太に記されてあり、側面にやや小さな文字で東西への里程を旅人に教えているのも、その柱だ。
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長野県西筑摩郡|神坂《みさか》村
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 馬籠の旧《ふる》い宿場も建て直ろうとする最中の時である。二十五人、二十五匹の宿人足と御伝馬とは必ず用意して置くはずの宿場にも、その必要がなくなってからは、一匹の御伝馬につき買い入れ金十八両ほどずつ、一人《ひとり》の宿人足につき手当て七両二分ほどずつ受けて来た人たちも、勢い生活の方法を替えないわけには行かない。伊勢《いせ》へ、津島へ、金毘羅《こんぴら》へ、御嶽《おんたけ》へ、あるいは善光寺への参詣者《さんけいしゃ》の群れは一新講とか真誠講とかの講中を組んで相変わらずこの街道にやって来る。ここを通商路とする中津川方面の商人、飯田《いいだ》行きの塩荷その他を積んだ馬、それらの通行にも変わりはない。しかし旧宿場に衣食して来た御伝馬役や宿人足、ないし馬差《うまざし》、人足差《にんそくざし》の人たちはもはやそれのみにたよれない。目証《めあかし》もとくに土地を去り、雲助もいつのまにか離散して見ると、中牛馬会社の輸送に従事する以外のものは開墾、殖林、耕作、養蚕、その他の道についた。切り畑焼き畑を開いて稗《ひえ》蕎麦《そば》等の雑穀を植えるもの、新田を開いて柴草《しばくさ》を運ぶもの、皆元気いっぱいだ。馬籠は森林と岩石との間であるばかりでなく、傾斜の多い地勢で水利の便もすくなく、荒い笹刈《ささが》りには蚋《ぶよ》や藪蚊《やぶか》を防ぐための火繩《ひなわ》を要し、それも恵那山のすその谷間の方へ一里も二里もの山道を踏まねばならないほど骨の折れる土地柄であるが、多くのものはそれすらいとわなかった。宿場の行き詰まりは、かえってこの回生の活気を生んだ。そこへ行くと、新規まき直しの困難はむしろ従来宿役人として上に立った人たち、その分家、その出店《でみせ》なぞの家柄を誇るものの方に多い。というのは、今までの生活ぶりも一様ではなく、心がけもまちまちで、それになんと言っても長い間の旦那衆|気質《かたぎ》から抜け切ることも容易でないからであった。そういう中で、梅屋のように思い切って染め物屋を開業したところもある。旧のごとく街道に沿うた軒先に杉《すぎ》の葉の円《まる》く束にしたものを掛け、それを清酒の看板に代えているのは、二代目伊之助の相続する伏見屋のみである。
 半蔵が帰り着いたのはこうしたふるさとだ。彼が飛騨からの若者と共に、変わらずにある青山の家の屋根の下に草鞋《わらじ》の紐《ひも》を解いたのは午後の三時ごろであった。もとより新しい進路を開きたいとの思い立ちからとは言いながら、国を出てか
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