る錦織村《にしこうりむら》に至って、はじめて海浜往復の舟絡を開くと言ってある。御嶽山より流れ出る川(王滝川《おうたきがわ》)においては、冬の季節に当たって数多《あまた》の材木を伐《き》り出す作業というものがある、それはおもに檜《ひのき》、杉《すぎ》、栂《つが》、および松の種類であるが、それらの材木を河中に投げ入れ、それから木曾川の岩石のとがり立った河底を洪水《こうずい》の勢力によって押し下し、これを錦織村において集合する、そこで筏《いかだ》に組んで、それから尾州湾に送り出すとも言ってある。ボイルの観察はそれだけにとどまらない。この川の上流においては槻材《つきざい》もまたたくさんに産出するが、それが重量であって水運の便もきかず、また陸送するにはその費用の莫大《ばくだい》なために、かつてこれを輸出することがないと言って、もし東山道幹線の計画が実現されるなら、この山国開発の将来に驚くべきものがあろうことをも暗示してある。
馬籠まで来て、ホルサムはこれらのことを胸にまとめて見た。隣村の妻籠からこの馬籠峠あたりはボイルが設計の内にははいっていない。それは山丘の多い地勢であるために、三留野駅から木曾川の対岸に鉄道線を移すがいいとのボイルの意見によるものであった。それにしてもこの計画は大きい。内部地方の開発をめがけ、都会と海浜との往復を便宜ならしめるの主意で、ことさら国内一般の利益を図ろうとするところから来ている。いずれは鉄道線通過のはじめにありがちな、頑固《がんこ》な反対説と、自然その築造を妨げようとする手合いの輩出することをも覚悟せねばならなかった。山家の旅籠屋らしい三浦屋の一室で、ホルサムはそんなことを考えて、来たるべき交通の一大変革がどんな盛衰をこの美しい谷々に持ち来たすであろうかと想像した。
二
翌朝ホルサムの一行は三浦屋を立って、西の美濃路をさして視察に向かって行った。この旧《ふる》い街道筋と運命を共にする土地の人たちはまだ何も知らない。将来の交通計画について政府がどんな意向であるやも知らない。まして、開国の結果がここまで来たとは知りようもない。あの宿駕籠《しゅくかご》二十五|挺《ちょう》、山駕籠五挺、駕籠|桐油《とうゆ》二十五枚、馬桐油二十五枚、駕籠|蒲団《ぶとん》小五十枚、中二十枚、提灯《ちょうちん》十|張《はり》と言ったはもはや宿場全盛の昔のことで、伝馬所にかわる中牛馬会社の事業も過渡期の現象たるにとどまり、将来この東山道を変えるものが各自の生活にまで浸って来ようとはなおなお知りようもない。
伏見屋の伊之助は自宅の方に病んでいた。彼は、馬籠泊まりで通り過ぎて行った英国人のうわさを聞きながら、二十余年の街道生活を床の上に思い出すような人であった。馬籠の年寄役、兼問屋後見として、彼が街道の世話をしたのも一昔以前のことになった。彼の知っている狭い範囲から言っても、嘉永《かえい》年代以来、黒船の到着は海岸防備の必要となり、海岸防備の必要は徳川幕府および諸藩の経費節約となり、その経費節約は参覲交代《さんきんこうたい》制度の廃止となり、参覲交代制度の廃止はまたこれまですでに東山道を変えてしまった。
もはや明治のはじめをも御一新とは呼ばないで、多くのものがそれを明治維新と呼ぶようになった。ひとり馬籠峠の上にかぎらず、この街道筋に働いた人たちのことに想《おも》いいたると、彼伊之助には心に驚かれることばかりであった。事実、町人と百姓とを兼ねたような街道人の心理は他から想像さるるほど単純なものではない。長い武家の奉公を忍び、腮《あご》で使われる器械のような生活に屈伏して来たほどのものは、一人《ひとり》として新時代の楽しかれと願わぬはなかろう。宿場の廃止、本陣の廃止、問屋の廃止、御伝馬の廃止、宿人足の廃止、それから七里飛脚の廃止のあとにおいて、実際彼らが経験するものははたして何であったろうか。激しい神経衰弱にかかるものがある。強度に精神の沮喪《そそう》するものがある。種々《さまざま》な病を煩《わずら》うものがある。突然の死に襲われるものがある、驚かれることばかりであった。これはそもそも、長い街道生活の結果か。内には崩《くず》れ行く封建制度があり、外には東漸するヨーロッパ人の勢力があり、かくのごとき社会の大変態は、開闢《かいびゃく》以来いまだかつてないことだと言わるるほどの急激な渦《うず》の中にあった証拠なのか。張り詰めた神経と、肉身との過労によるのか。いずれとも、彼には言って見ることができない。過去を振り返ると、まるで夢のような気がするとは、同じ馬籠の宿役人仲間の一人が彼に話したことだ。彼は、その茫然《ぼうぜん》自失したような人の言葉の意味を聞き流せなかったことを覚えている。
これらのことを伊之助がしみじみ語り合いた
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