の根本とし、儒仏をその枝葉とすることは、神祇局《じんぎきょく》以来の一大方針で、耶蘇《ヤソ》教徒たりともこの根本を保全するが道であるというふうに半蔵らは考えた。ところが外国宣教師は種々《さまざま》な異議を申し立て、容易にこの方針に従わない。それに力を得た真宗の僧侶《そうりょ》までが勝手を主張しはじめ、独立で布教に従事するものを生じて来た。半蔵は教部省に出仕して見てこのことを痛感した。外国宣教師の抗議に対して今日のような妥協に妥協をのみ重ねるとしたら、各派教導職の不平も制《おさ》えがたくなって、この国の教化事業はただただ荒れるに任せ、一切を建て直そうとする御一新の大きな気象もついには失われて行くであろう。神祇局は神祇省となり、神祇省は教部省となった。結局、教部省というものも今に廃されるであろう。このことが彼を悲しませる。
二百余年前、この国において、ホルトガル人、イスパニア人を追放したころの昔と、明治七年の今とでは、もとより外国の風習も大いに異なっているかもしれない。今の西洋は昔ほど宗門のことを皆願っているというふうではないかもしれない。それはすでに最初の米国領事ハリスがこの国のものに教えたことである。あのハリスが言うように、今のアメリカあたりでは宗門なぞは皆、人々の望みに任せ、それこれを禁じまたは勧めるようなことはさらにないかもしれない。何を信仰しようとも人々の心次第であるかもしれない。今のヨーロッパで見いだした信仰の基本とは、人々銘々の心に任せるよりほかにいたし方もないと決着したとある。半蔵とても一応そのことを考慮しないではなかったが、しかし自分らの子孫のためにもこれはゆるがせにすべきでないと思って来た。宗教の事ほどその源の清く、その末の濁りやすいものもすくない。わが国神仏|混淆《こんこう》の歴史は何よりも雄弁にそれを語っている。この先、神耶《しんヤ》混淆のような事が起こって来ないとは決して言えなかった。どんな耶蘇の宣教師が渡来して、根気もあり智《さと》りも深くて、人をなつけ、新奇を好むこの国のものに根本と枝葉との区別をすら忘れさせるようなことが起こって来ないとは、これまた決して言えなかった。御一新もまだ成就しない今のうちに、国民教化の基準をしっかりと打ち建てて置きたい。それが半蔵らの願いであった。
静かなところで想《おも》い起こして見ると、あだかも目に見えない細い糸筋のように、いろいろな思いがそれからそれと引き出される。郷里の方に留守居する継母や妻子のこともしきりに彼の胸に浮かんで来た。彼は今度の事件がどんなふうに村の人たちのうわさに上るだろうかと思い、これがまた彼の飛騨行きにどう響くかということも心にかかった。
三
十一月二十九日に、半蔵は東京裁判所の大白洲《おおしらす》へ呼び出された。その時、彼は掛りの役人から口書《くちがき》を読み聞かせられたので、それに相違ない旨《むね》を答えると、さらに判事庁において先刻の陳述は筆記書面のとおりに相違ないかと再応の訊問《じんもん》があった。彼が相違ない旨を答えると、それなら調印いたせとの言葉に、即刻調印を差し上げた。追って裁断に及ぶべき旨を言い聞かせられて、彼はその場を退いて来た。
とりあえず半蔵はこのことを多吉夫婦の耳に入れ、郷里の留守宅あてにもありのままを書いて、自分の粗忽《そこつ》から継母にまで心配をかけることはまことに申し訳がないと言い送った。のみならず、このために帰国の日もおくれ、飛騨行きまで延び、いろいろ心にかかることばかりであるがこれもやむを得ない、このまま帰国は許されないから裁断申し渡しの日が来るまでよろしく留守居を頼むとも言い送った。なお、彼は裁判所での模様を新乗物町の方へ手紙で知らせてやると、月を越してからわざわざ彼を見に来てくれたのも金丸恭順であった。
「青山君、いくら御謹慎中だって、そう引っ込んでばかりいなくてもいいでしょう。せめて両国辺まで出てごらんなさい。台湾の征蕃兵《せいばんへい》がぽつぽつ帰って来るようになりましたぜ。」
恭順はこんな話を持って左衛門町の二階へ上がって来た。征蕃兵が凱旋《がいせん》を迎えようとする市内のにぎわいも、半蔵はそれを想像するにとどめて、わびしくこもり暮らしている時である。恭順の顔を見ると、半蔵は裁断申し渡しの日の待ちどおしいことを言い、その結果いかんではせっかく彼を懇望する飛騨地方の人たちが思惑《おもわく》もどうあろうかと言い出す。その時、恭順は首を振って、これが他の動機から出た行為なら格別、一点の私心もない憂国の過慮からであって見れば、飛騨の方は心配するほどのことはあるまい、なお、田中不二麿からも飛騨有志あてに一筆書き送ってもらうことにしようと語った末に、言った。
「どうです、青山君、君も新乗物
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