剃刀《かみそり》を持たせてはまず名人だと日ごろ多吉が半蔵にほめて聞かせるのも、そこに働いている亭主のことである。
「これは、いらっしゃい。」
 その柳床の亭主が声を聞いて、半蔵は二、三の先着の客のそばに腰掛けた。髷《まげ》のあるもの、散髪のもの、彼のように総髪《そうがみ》にしているもの、そこに集まる客の頭も思い思いだ。一方にはそこに置いてある新版物を見つけて当時評判な作者|仮名垣魯文《かながきろぶん》の著わしたものなぞに読みふける客もあれば、一方には将棋をさしかけて置いて床屋の弟子《でし》に顔をやらせる客もある。なんと言っても、まだまだ世の中には悠長《ゆうちょう》なところがあった。やがて半蔵の順番に回って来ると、床屋の亭主が砥石《といし》の方へ行ってぴったり剃刀をあてる音にも、力を入れてそれを磨《と》ぐ音にも、彼は言いあらわしがたい快感を覚えた。むさくるしく延びた髭《ひげ》が水にしめされながら剃られるたびに、それが亭主の手の甲の上にもあり、彼の方で受けている小さな板の上にも落ちた。
 いつのまにか彼の心は、あとからはいって来た客の話し声の方へ行った。過ぐる日、帝の行幸のあったおり、神田橋外で御通輦を待ち受けた話をはじめた客がそこにある。客は当日の御道筋に人の出たことから、一人《ひとり》の直訴《じきそ》をしたもののあったことを言い出し、自身でその現場を目撃したわけではないが、往来《ゆきき》の人のうわさにそれを聞いて気狂いと思って逃げ帰ったという。思わず半蔵はハッとした。でも、彼は自分ながら不思議なくらいおちついたこころもちに帰って、まるで他人のことのように自分のうわさ話を聞きながら、床屋の亭主がするままに身を任せていた。親譲りの大きく肉厚《にくあつ》な本陣鼻から、耳の掃除《そうじ》までしてもらった。


 何げなく半蔵は床屋を出た。上手《じょうず》な亭主が丁寧に逆剃《さかぞ》りまでしてくれてほとんどその剃刀を感じなかったほどの仕事を味わったあとで、いささか頬《ほお》は冷たいというふうに。
 その足で半蔵は左衛門町の二階へ引き返して行った。静かな西向きの下窓がそこに彼を待っている。そこは彼が一夏の間、慣れない東京の暑さに苦しんで、よく涼しい風を入れに行ったところだ。部屋《へや》は南に開けて、その外が町の見える縁側になっているが、きれい好きな宿のかみさんは彼の入檻中に障子を張り替えて置いてある。上京以来すでに半年あまりも寝起きをして見れば、亭主多吉の好みで壁の上に掛けて置く小額までが彼には親しみのあるものとなっている。
 過ぐる五日の暗さ。彼は部屋に戻《もど》っていろいろと片づけ物なぞしながら、檻房《かんぼう》の方に孤坐《こざ》した時の自分のこころもちを思いかえした。彼の行為が罪に問われようとして東京裁判所の役人の前に立たせられた時、彼のわずかに申し立てたのは、かねて耶蘇教《ヤソきょう》の蔓延《まんえん》を憂い、そのための献言も仕《つかまつ》りたい所存であったところ、たまたま御通輦を拝して憂国の情が一時に胸に差し迫ったということであった。ちょうど所持の扇子に自作の和歌一首しるしつけて罷《まか》り在《あ》ったから、御先乗《おさきのり》とのみ心得た第一のお車をめがけて直ちにその扇子をささげたなら、自然と帝のお目にもとまり、国民教化の規準を打ち建てる上に一層の御英断も相立つべきかと心得たということであった。
 すくなくもこの国の前途をおのが狭い胸中に心配するところから、彼もこんな行為に出た。ただただそれが頑《かたくな》な心のあらわれのように見られることはいかにも残念であるとするのが、彼の包み隠しのないところである。開国以前のものは皆、一面に西洋を受けいれながら、一面には西洋と戦った。不幸にも、この国のものがヨーロッパそのものを静かによく見うるような機会を失ったことは、二度や三度にとどまらない。かく内に動揺して、外を顧みるいとまもないような時に、歴史も異なり風土も異なり言葉も異なる西洋文明の皮相を模倣するのみで、それと戦うことをしなかったら、末ははたしてどうなろう。そのことがすでに彼には耐えられなかった。そういう彼とても、ただ漫然と異宗教の蔓延《まんえん》を憂いているというではない。もともと切支丹宗《キリシタンしゅう》取り扱いの困難は織田信長《おだのぶなが》時代からのこの国のものの悩みであって、元和《げんな》年代における宗門|人別帳《にんべつちょう》の作製も実はその結果にほかならない。長い鎖国が何のためかは、宗門のことをヌキにしては考えられないことであった。いよいよこの国を開くに当たって、新時代が到来した時、あの厩戸皇子《うまやどのおうじ》が遠い昔にのこした言葉と言い伝えらるるものは、また新時代に役立つことともなった。すなわち、神道をわが国
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