返ると、彼が父吉左衛門の許しを得て、最初の江戸の旅に平田|鉄胤《かねたね》の門をたたき、誓詞、酒魚料、それに扇子《せんす》壱箱を持参し、平田門人の台帳に彼の名をも書き入れてもらったのは安政三年の昔であって、浅い師弟の契りとも彼には思われなかった。その師にすら、「ここまではお前たちを案内して来たが、ここから先の旅はお前たち各自に思い思いの道をたどれ」と言わるるような時節が到来した。これは全く自然の暇乞《いとまご》いで、その年、明治六年には師ももはや七十二歳の老齢を迎えられたからである。この心ぼそさに加えて、前年の正月には彼は平田|延胤《のぶたね》若先生の死をも見送った。平田派中心の人物として一門の人たちから前途に多くの望みをかけられたあの延胤が四十五歳で没したことは、なんと言っても国学者仲間にとっての大きな損失である。追い追いの冷たい風は半蔵の身にもしみて来た。そこへ彼の娘まで深傷《ふかで》を負った。感じられはしても、説き明かせないこの世の深さ。あの稲妻《いなずま》のひらめきさえもが、時としては人に徹する。生きることのはかなさ、苦しさ、あるいは恐ろしさが人に徹するのは、こういう時かと疑われるほど、彼も取り乱した日を送って来た。この彼が過去を清算し、もっと彼自身を新しくしたいとの願いから、ようやく起こし得た心というは、ほかでもない。それは平田篤胤没後の門人として、どこまでも国学者諸先輩を見失うまいとする心であった。
半蔵も動いて来た。時にはこのまま村夫子《そんふうし》の身に甘んじて無学な百姓の子供たちを教えたいと思い、時にはこんな山の中に引き込んでいて旧《ふる》い宿場の運命をのみ見まもるべき世の中ではないと思い、是非胸中にたたかって、精神の動揺はやまない。多くの悲哀《かなしみ》が神に仕える人を起こすように、この世にはまだ古《いにしえ》をあらわす道が残っていると感づくのも、その彼であった。復古につまずいた平田篤胤没後の門人らがいずれも言い合わせたように古い神社へとこころざし、そこに進路を開拓しようとしていることも、いわれのあることのように彼には考えられて来た。松尾の大宮司となった師岡正胤《もろおかまさたね》、賀茂の少宮司となった暮田正香《くれたまさか》なぞを引き合いに出すまでもなく、伊那の谷にある同門の人たちの中にもその方向を取ろうとする有志のものはすくなくない。
[#ここから2字下げ]
山窓《やままど》にねざめの夜はの明けやらで風に吹かるる雨の音かな
祖《おや》の祖《おや》のそのいにしへは神なれば人は神にぞ斎《いつ》くべらなる
[#ここで字下げ終わり]
この述懐の歌は、半蔵が斎《いつき》の道を踏みたいと思い立つ心から生まれた。すくなくも、その心を起こすことは、先師の思《おぼ》し召しにもかなうことであろうと考えられたからで。
新しい路《みち》をひらく手始めに、まず半蔵は自家の祭葬のことから改めてかかろうと思い立った。元来神葬祭のことは中世否定の気運と共に生まれた復古運動のあらわれの一つで、最も早くその根本問題に目を着け、またその許しを公《おおやけ》に得たものは、士籍にあっては豊後岡藩《ぶんごおかはん》の小川|弥右衛門《やえもん》、地下人《じげにん》(平民)にあっては伊那小野村の庄屋倉沢|義髄《よしゆき》をはじめとする。ことに、義髄は一日も人身の大礼を仏門に委《ゆだ》ねるの不可なるを唱え、中世以来宗門仏葬等のことを菩提寺《ぼだいじ》任せにしているのはこの国の風俗として恐れ入るとなし、信州全国|曹洞宗《そうとうしゅう》四百三か寺に対抗して宗門|人別帳《にんべつちょう》離脱の運動を開始したのは慶応元年のころに当たる。義髄はそのために庄屋の職を辞し、京都寺社奉行所と飯田千村役所との間を往復し、初志を貫徹するために前後四年を費やして、その資産を蕩尽《とうじん》してもなお屈しないほどの熱心さであった。徳川幕府より僧侶《そうりょ》に与えた宗門権の破棄と、神葬復礼との奥には、こんな人の動きがある。しかし世の中は変わった。その年、明治六年の十一月には、筑摩《ちくま》県|権令《ごんれい》永山盛輝《ながやまもりてる》の名で、神葬仏葬共に人民の信仰に任せて聞き届ける旨《むね》はかねて触れ置いたとおりであるが、今後はその願い出にも及ばない、各自の望み次第、葬儀改典勝手たるべしの布告が出るほどの時節が到来した。木曾福島取締所の意をうけて三大区の区長らからそれを人民に通達するほどの世の中になって来た。これは半蔵にとっても見のがせない機会である。彼は改典の事を共にするため、何かにつけての日ごろの相談相手なる隣家の主人、伊之助を誘った。
菩提寺任せにしてあった父祖の位牌《いはい》を持ち帰る。その塵埃《ほこり》を払って家に迎え入れる。墓地の掃除も寺任せにしない
前へ
次へ
全123ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング