、早くこの戸を明け放てと告げに来る人のように。過ぐる明治四年の十一月、岩倉大使一行に随《したが》って洋学修業のためはるばる米国へ旅立った五名の女子があるなぞはその一つだ。それは北海道開拓使から送られた日本最初の女子留学生であると言われ、十五歳の吉益亮子《よしますあきこ》嬢、十二歳の山川捨松《やまかわすてまつ》嬢なぞのいたいけな年ごろの娘たちで、中にはようやく八歳になる津田梅子《つだうめこ》嬢のような娘もまじっていたとか。大変な評判で、いずれも前もって渡された洋行心得書を懐中《ふところ》にし、成業帰朝の上は婦女の模範ともなれとの声に励まされ、稚児髷《ちごまげ》に紋付|振袖《ふりそで》の風俗で踏み出したとのことであるが、横浜港の方にある第一の美麗な飛脚船、太平洋汽船会社のアメリカ号、四千五百トンからの大船がこの娘たちを乗せて動いて行ったという夢のような光景は、街道筋にいて伝え聞くものにすら、新世界の舞台に向かってかけ出そうとするこの国のあがきを感じさせずには置かなかった。追い追いと女学もお取り建ての時勢に向かって、欧米教育事業の視察の旅から帰って来た尾州藩出身の田中|不二麿《ふじまろ》が中部地方最初の女学校を近く名古屋に打ち建てるとのうわさもある。一方には文明開化の波が押し寄せ、一方には朝鮮征伐の声が激し、旧《ふる》い物と新しい物とが入れまじって、何がこの先見えて来るやかもわからないような暗い動揺の空気の中で、どうして娘たちの心ばかりそう静かにしていられたろう。
九月にはいると、お粂が結婚のしたくのことについて、南殿村の稲葉の方からはすでにいろいろと打ち合わせがある。嫁女《よめじょ》道中も三日がかりとして、飯田《いいだ》泊まりの日は伝馬町屋《てんまちょうや》。二日目には飯島《いいじま》扇屋《おうぎや》泊まり。三日目に南殿村着。もっとも、馬籠から飯田まで宿継ぎの送り人足を出してくれるなら、そこへ迎えの人足を差し出そうというようなことまで、先方からは打ち合わせが来ている。
「お粂、よい晴れ着ができましたよ。どれ、お父《とっ》さんにもお目にかけて。」
お民は娘のために新調した結婚の衣裳《いしょう》を家の女衆に見せて、よろこんでもらおうとしたばかりでなく、それを店座敷にまで抱きかかえて行って、夫のいる部屋《へや》の襖《ふすま》に掛けて見せた。
男の目にも好ましい純白な
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