二汁《にじゅう》、三菜、それに一泊を願いたし。これはその年の二月に伊那南殿村の稲葉家から届いた吉辰申し合わせの書付の中の文句である。お民はそれを先方から望まれるとおりにした上、すでに結納《ゆいのう》のしるしまでも受け取ってある。それは帯地一巻持参したいところであるが、間に合いかねるからと言って、白無垢《しろむく》一反、それに酒の差樽《さしだる》一|荷《か》を祝って来てある。これまでにお粂の縁談をまとめてくれたのもほかならぬ姑《しゅうとめ》おまんであり、その人は半蔵にとっても義理ある母であるのに、かんじんのお粂はとかく結婚に心も進まなかった。のみならず、この娘を懇望する稲葉家の人たちに、半蔵の戸長免職がどう響くかということすら、お民には気づかわれた。そういうお民の目に映る娘は、ますます父半蔵に似て行くような子である。弟の宗太《そうた》なぞ、明治四年のころはまだ十四歳のうら若さに当時名古屋県の福島出張所から名主《なぬし》見習いを申し付けられたほどで、この子にこそ父の俤《おもかげ》の伝わりそうなものであるが、そのことがなく、かえって姉娘の方にそれがあらわれた。お民は、成長したお粂の後ろ姿を見るたびに、ほんとに父親にそっくりなような娘ができたと思わずにいられない。半蔵は熱心な子女の教育者だから、いつのまにかお粂も父の深い感化を受け、日ごろ父の尊信する本居《もとおり》、平田《ひらた》諸大人をありがたい人たちに思うような心を養われて来ている。お粂は性来の感じやすさから、父が戸長の職を褫《は》がれ青ざめた顔をして木曾福島から家に帰って来た時なぞも、彼女の小さな胸を傷《いた》めたことは一通りでなかった。彼女は、かずかずの数奇《すき》な運命に娘心を打たれたというふうで、
「わたしはこうしちゃいられないような気がする。」
と言って、母のそばによく眠らなかったほどの娘だ。
しかし、お民はお民なりに、この娘を励まし、一方には強い個性をもった姑との間にも立って、戸長免職後の半蔵を助けながら精いっぱい働こうと思い立っていた。以前にお民が妻籠《つまご》旧本陣を訪《たず》ねたおり、おばあさんや兄夫婦のいるあの生家《さと》の方で見て来たことは、自給自足の生活がそこにも始まっていることであった。お民はそれを夫の家にも応用しようとした。彼女は周囲を見回した。もっと養蚕を励もうとさえ思えば、広い玄関の
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