忙にかまけて、たまにしかあの静《しず》の屋《や》を訪《たず》ねることもしなかった。でも、半蔵の顔を見るたびに、旧師も年を取れば取るほどよいところへ出て行ったように想《おも》い見ていた。こんな乱心が青山半蔵の最期とは彼には考えられもしなかった。
 勝重は言った。
「浅見さん、あなたの前ですが、あなたがたがあの平田先生のあとを追いかけたようには、あたしどもはお師匠さまのあとを追いかけることもしませんでしたね。その熱心がわたしどもには欠けていたんです。もっとわたしどもがお師匠さまと一緒に歩いたら、こんな過《あやま》ちはさせずに済んだかもしれません。」
 そういう彼はさも残念なというこころもちを顔に表わしていたが、しかも衷心の狼狽《ろうばい》は隠そうとして隠せなかった。岩崎長世、あるいは宮川寛斎なぞの先輩について、はじめて国学というものに目をあけた半蔵が旧《ふる》い学友のうち、中津川の香蔵もすでに故人となって、今は半蔵より十年ほども早く生まれた景蔵だけが残った。この平田門人は代々中津川の本陣で、もっぱら人馬郵伝の事を管掌し、東山道中十七駅の元締《もとじめ》に任じて来た人で、維新間ぎわまでは同郷の香蔵と相携えて国事に奔走し、あるいは京都まで出て幾多の政変の渦《うず》の中にも立ち、あるいは長州人士を引いていわゆる中津川会議を自宅に開かせ、あるいはまた幕府の注意人物であった多くの志士を自宅にかばい置くなど、百方周旋していたらないところのないくらいであったが、いよいよ王政復古の日を迎えると共に全く草叢《くさむら》の中に身を隠してしまったのもこの景蔵である。当年の手記、奏議、書翰《しょかん》等の類に至るまで深くしまい込んでしまって、かつてそれを人に示したこともない。明治元年に権令《ごんれい》林左門が笠松《かさまつ》県出仕を命じたが、景蔵は病ととなえて固く辞退した。それでも許されなかったので、三日事をみたぎり、ぶらりと京都の方へ出かけて行って、また仕えなかった。同じく二年に太政官《だじょうかん》は彼を弾正台内監察《だんじょうだいないかんさつ》に任じた。それもおのれの志ではないとして、拝命後数か月で辞し去ってしまった。明治九年から十二年まで、彼は特に選ばれて岐阜《ぎふ》県|権《ごん》区長の職にあったが、その時ばかりは郷党子弟のためであるとして大いに努めることをいとわなかった。すべてこのた
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