たことのない彼が扇子を取り出して子の面《かお》を打ち励まそうとまでした人も彼である。ある時は静の屋に隠れていて、静かに見れば物皆自得すと言った古人の言葉を味わおうと思い、ある時は平田篤胤没後の門人がこんなことでいいのかと考え、まだ革新が足りないのだ、破壊も足りないのだと考えるのも、その同じ彼だ。
やがて残った暑さの中にも秋気が通って来て、朝夕はそこいらの石垣《いしがき》や草土手で鳴く蟋蟀《こおろぎ》の声を聞くようになった。ある夜の明けがた、半蔵は隠宅の下座敷にお民と枕《まくら》をならべていて不思議な心地《ここち》をたどった。その時の彼は妻にも見られないように家を抜けて、こっそり町へ酒を買いに出た人である。大戸がある。潜《くぐ》り戸《ど》がある。杉《すぎ》の葉の円《まる》く束にしたのが街道に添うた軒先にかかっている。戸をたたくと内には人が起きていて、彼のために潜り戸をあけてくれる。そこは伏見屋の店先で、二代目伊之助がみずから樽《たる》の前に立ち、飲み口の栓《せん》を抜いて、流れ出る酒を桝《ます》に受け、彼の方から差し出した徳利にそれを移して売ってくれる。それまではよかったが、彼は隠し持つ酒を携え帰る途中でさまざまな恐ろしい思いをした。そして、家まで帰り着かないうちに、目がさめた。
しばらく盃《さかずき》を手にしない結果が、こんな夢だ。彼の内部《なか》にはいろいろなことも起こって来るようになった。妙に気の沈む時は、部屋《へや》にある襖《ふすま》の唐草《からくさ》模様なぞの情《こころ》のないものまでが生き動く物の形に見えて来た。男女両性のあろうはずもない器物までが、どうかすると陰と陽との姿になって彼の目に映って来た。小半日暮らした。その彼が周囲を見回したころは夕方に近い。お民は本家の手伝いから帰って来て、隠宅の台所で夕飯のしたくを始める。とにもかくにも一夏の間、自ら思い立って守りつづけて来た飲酒の戒も、妙な夢を見たために捨てたくなったことを彼はお民に話し、これでは無理だと思って来たのもその夢からであったと彼女の前に白状した。その時、お民は襷《たすき》がけのまま、実はしばらく見えなかった落合の勝重《かつしげ》が最近にまた訪《たず》ねて来てくれた時に置いて行った酒のあることを夫に告げた。彼女はそれを夫に隠して置いたことをも告げた。
「ホ、落合の酒をくれたか。勝重さんはこの
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