ませんな。これじゃ、木曾の人民も全くひどい。まるで水に離れた魚のようなものです。」
というと、いかにもこの人は適切なたとえを言い当てたように聞こえるが、その実、魚にはあまり縁がない。水に住むと言えば、この人に親しみのあるのは、池に飼う鯉《こい》か、王滝川まで上って来る河魚《かわうお》ぐらいに限られている。たまにこの山里へかつがれて来る塩辛い青串魚《さんま》なぞは骨まで捨てることを惜しみ、炉の火にこんがりとあぶったやつを味わって見るほど魚に縁が遠い。そのかわり、谷へ来る野鳥の類なら、そのなき声をきいただけでもすぐに言い当てるほど多くの鳥の名を諳記《そらん》じていて、山林の枯れ痛み、風折れ、雪折れ、あるいは枝卸しなどのことには精通していた。
いったい、こんな山林事件を引き起こした木曾谷に、これまで尾州藩で置いた上松の陣屋があり、白木番所があり、山奉行があり、山守《やまもり》があり、留山見回りなぞがあって、これほど森林の保護されて来たというはなんのためか。そこまで話を持って行くと、五平にも半蔵にもそう一口には物が言えなかった。尾州藩にして見ると、年々木曾山から切り出す良い材木はおびただしい数に上り、同藩の財源としてもこの森林地帯を重くみていたように世間から思われがちであるが、その実、河水を利用する檜材の輸送には莫大《ばくだい》な人手と費用とを要し、小谷狩《こたにがり》、大谷狩から美濃の綱場を経て遠い市場に送り出されるまで、これが十露盤《そろばん》ずくでできる仕事ではないという。それでもなおかつ尾州藩が多くの努力を惜しまなかったというは、山林保護の精神から出たことは明らかであるが、一つには木曾川下流の氾濫《はんらん》に備えるためで、同藩が治水事業に苦しんで来た長い歴史は何よりもその辺の消息を語っているとも言わるる。もっとも、これは川下の事情にくわしい人の側から言えることで、遠く川上の方の山の中に住み慣れた地方《じかた》の人民の多くはそこまでは気づかなかった。ただ、この深い木曾谷が昼でも暗いような森林におおわれた天然の嶮岨《けんそ》な難場《なんば》であり、木曾福島に関所を置いた昔は鉄砲を改め女を改めるまでに一切の通行者の監視を必要としたほどの封建組織のためにも、徳川直属の代官によって護《まも》られ、尾州大藩によっても護られて来た東山道中の特別な要害地域であったろうとは、半
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