してお出かけだよ。」
「はッ、はッ、はッ、はッ。」
半蔵は妻の手から笠《かさ》を受け取りながら笑った。
「お粂、王滝のお宮の方へ行ったら、お前の分もお参りして来てやるよ。」
との言葉を彼は娘にも残した。
したくはできた。そこで半蔵は飄然《ひょうぜん》と出かけた。戸長の旅費、一日十三銭の定めとは、ちょっと後世から見当もつかない諸物価のかけ離れていた時代だ。それも戸敷割でなしに、今度は彼が自分|賄《まかな》いの小さな旅だった。馬籠から妻籠まで行って、彼はお民の生家《さと》へ顔を出し、王滝行きの用件を寿平次にも含んで置いてもらって、さらに踏み慣れた街道を奥筋へと取った。妻籠あたりで見る木曾谷は山から伐り出す材木を筏《いかだ》に組んで流す冬期の作業のための大切な場所の一つにも当たる。その辺まで行くと、薄濁りのした日も緑色にうつくしい木曾川の水が白い花崗《みかげ》の岩に激したり、石を越えたりして、大森林の多い川上の方から瀬の音を立てながら渦巻《うずま》き流れて来ている。
四
「老先生へも久しくお便《たよ》りしない。」
野尻《のじり》泊まりでまた街道を進んで行くうちに、半蔵はそんなことを胸に浮かべた。馬籠を立ってから二日目の午後のこと、街道を通る旅人もすくなくない。猿《さる》を背中にのせた旅の芸人なぞは彼のそばを行き過ぎつつある。あくせくとしたその奔走の途中にふと彼は同門の人たちの方へ思いを馳《は》せ、師平田|鉄胤《かねたね》の周囲にある先輩らをも振り返って見た。木と木と重なり合う対岸の森の深さが、こちらの街道から見られるようなところだ。
「及ばずながら、自分も復古のために働いている。」
その考えが彼を励ました。彼も、師を忘れてはいなかった。
家に置いて来た娘お粂のことも心にかかりながら、半蔵はその足で木曾の桟《かけはし》近くまで行った。そこは妻籠あたりのような河原《かわら》の広い地勢から見ると、ずっと谷の狭《せば》まったところである。木曾路での水に近いところである。西よりする旅人は道路に迫った崖《がけ》に添い、湿っぽい坂を降りて行って、めずらしい草や苔《こけ》などのはえている岩壁の下の位置に一軒の休み茶屋を見いだす。半蔵もそこまで行って汗をふいた。偶然にも、通弁の男を連れ、荷物をつけた馬を茶屋の前に停《と》めて、半蔵のそばへ来て足を休める一人の旅
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