しげりあふめり
この頃《ごろ》は夏野の草のうらぶれて風の音だにきかずもあるかな
たまさかの言の葉草もつまなくにたまるは袖《そで》の露にぞありける
しげりあふ夏山のまにゆく水のかくれてのみやこひわたりなむ
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「あなた、そんなにつめていいんですか。」
 階下《した》から箱梯子《はこばしご》を登って、二間つづきの二階に寝ている伊之助を見に来たのは、妻のお富《とみ》だ。
「おれか、」と伊之助は答えた。「さっきからおれは半蔵さんの歌に凝ってしまった。こういうもので見ると、実にやさしい人がよく出ているね。」
「あの中津川のお友だちと、半蔵さんとでは、どっちが歌はうまいんでしょう。」
「お前たちはすぐそういうことを言いたがるから困る。すぐに、どっちがうまいかなんて。」
「こりゃ、うっかり口もきけない。」
「だって、まるで行き方の違ったものだよ。別の物だよ。」
「そういうものですかねえ。」
「おれも好きな道だから言うが、半蔵さんの歌は出来不出来がある。そのかわり、どれを見ても真情は打ち出してあるナ。言葉なぞは飾ろうとしない。あの拙《つたな》いところが作者のよいところだね。こう一口にかじりついた梨《なし》のような味が、半蔵さんのものだわい。」
 伊之助に言わせると、それが半蔵だ。これらの歌にあらわれたものは、実は深い片思いの一語に尽きる。そしてこれまで長く付き合って見た半蔵のしたこと、言ったこと、考えたことは、すべてその深い片思いでないものはない。あの献扇事件の場合にしても、半蔵の方で思うことはただただ多くの人に誤解された。土地のものなぞはそれを伝え聞いた時は気狂《きちが》いの沙汰《さた》としてしまった。
「まあ、こちらでいくら思っても、人からそれほど思われないのが半蔵さんだね。ごらんな、あれほどの百姓思いでも、百姓からはそう思われない。」
「半蔵さんは、そういう人ですかねえ。」
「ここに便《たよ》りを待つ恋という歌があるよ。隠れてのみやこひわたりなむ、としてあるよ。」
「まあ。」
「あの人はすべてこの調子なんだね。」
 伊之助夫婦はこんなふうに語り合った後、半蔵が馬籠に残して置いて行った家族のうわさに移った。石垣《いしがき》一つ界《さかい》にして隣家に留守居する人たちのことは絶えず伊之助の心にかかっていたからで。半蔵の妻お民が峠のお頭《かしら》を供に連れて一
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