いと思う人は、なんと言っても青年時代から同じ駅路の記憶につながれている半蔵のほかになかった。あの半蔵のような動揺した精神とも違い、伊之助はなんとかして平常の心でこのむずかしい時を歩みたいと考えつづけて来たもので、それほど二人《ふたり》は正反対な気質でいながら、しかも一番仲がよい。病苦はもとより説くも詮《せん》なきことで、そんなことのために彼も半蔵を見たいとは願わなかったが、もしあの隣人が飛騨《ひだ》から帰っていたなら、気分のよいおりにでも訪《たず》ねて来てもらって、先々代から伏見屋に残った美濃派の俳人らが寄せ書きの軸なりと壁にかけ、八人のものが集まって馬籠風景の八つのながめを思い思いの句と画の中に取り入れてある意匠を一緒にながめながら、この街道のうつりかわりを語り合いたいと思った。そうしたら彼は亡《な》き養父金兵衛のことをもそこへ持ち出すであろう、七十四歳まで生きて三十一番の日記を残した金兵衛の筆は「明治三年九月四日、雨降り、本陣にて吉左衛門どの一周忌、御仏事御興行」のところで止めてあることをも持ち出すであろう、そして「このおれの目の黒いうちは」という顔つきで死ぬまで伊之助の世話を焼いて行ったほどのやかまし屋ではあるが、亡くなったあとになって、何かにつけてあの隠居のことを思い出すところを見ると、やはり人と異なったところがあったと見えると、言って見るであろうと思った。その半蔵は飛騨の水無《みなし》神社宮司として赴任して行ってから、二度ほど馬籠へ顔を見せたぎりだ。一度は娘お粂が木曾福島の植松家へ嫁《とつ》いで行った時。一度は跡目相続の宗太のために飯田《いいだ》から娵女《よめじょ》のお槇《まき》を迎えた時。任期四年あまりにもなるが、半蔵が帰国のほどもまだ判然しない。
 伊之助が長煩いの床の敷いてあるところは、先代金兵衛の晩年に持病の痰《たん》で寝たり起きたりしたその同じ二階の部屋《へや》である。山家は柴刈《しばか》りだ田植えだと聞く新緑のころで、たださえ季節に敏感な伊之助にはしきりに友恋しかった。彼は半蔵からもらったおりおりの便《たよ》りまで大切にしていて、病床で読んで見てくれと言って飛騨から送ってよこした旧作新作とりまぜの半蔵が歌稿なぞをも枕《まくら》もとに取り出した。その認《したた》めてある生紙《きがみ》二つ折り横|綴《と》じの帳面からしていかにもその人らしく、紙の色
前へ 次へ
全245ページ中133ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング