しなかった。


 多吉と恭順とは半蔵に付き添いながら、午後の四時ごろには左衛門町へ引き取って来た。お隅はこの三人を格子戸口に待たせて置き、下女に言いつけてひうち石とひうち鉄《がね》とを台所から取り寄せ、切り火を打ちかけるまでは半蔵らを家に入れなかった。
 時ならぬ浄《きよ》めの火花を浴びた後、ようやくの思いでこの屋根の下に帰り着いたのは半蔵である。青ざめもしよごれもしているその容貌《ようぼう》、すこし延びた髭《ひげ》、五日も櫛《くし》を入れない髪までが、いかにも暗いところから出て来た人で、多吉の着物を拝借という顔つきでいる彼がしょんぼりとした様子はお隅らの目にいたいたしく映る。彼は礼を言っても言い足りないというふうに、こんなに赤の他人のことを心配してくれるお隅の前にも手をついたまま、しばらく頭をあげ得なかったが、やがて入檻中肌身に着けていたよごれ物を風呂敷包みのままそこへ差し出した。この中は虱《しらみ》だらけだからよろしく頼むとの意味を通わせた。
「まずまあ、これで安心した。」と言って下座敷の内を歩き回るのは多吉だ。「お隅、おれは青山さんを連れて風呂《ふろ》に行って来る。金丸先生には、ここにいて待っていただく。」
「それがいい。青山君も行って、さっぱりとしていらっしゃい。わたしは一服やっていますからね。」と恭順も言葉を添える。
 半蔵はまだ借り着のままだ。彼は着物を改めに自分の柳行李《やなぎごうり》の置いてある二階の方へ行こうとしたが、お隅がそれをおしとどめて、そのままからだを洗いきよめて来てもらいたいと言うので、彼も言われるままにした。
「どれ、御一緒に行って、一ぱいはいって来ようか――お話はあとで伺うとして。」
 そういう多吉は先に立って、お隅から受け取った手ぬぐいを肩にかけ、格子戸口を出ようとした。
「お隅、番傘《ばんがさ》を出してくんな。ぽつぽつ降って来たぞ。」
 多吉夫婦はその調子だ。半蔵も亭主と同じように傘をひろげ、二人《ふたり》そろって、見るもの聞くもの彼には身にしみるような町の銭湯への道を踏んだ。
 多吉が住む町のあたりは古くからある数軒の石屋で知られている。家の前は石切河岸《いしきりがし》と呼び来たったところで、左衛門橋の通り一つへだてて鞍地河岸《くらちがし》につづき、柳原の土手と向かい合った位置にある。砂利《じゃり》、土砂、海土などを扱う店の側
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