に残念がり、そういう娘こそ見どころがあると言って、改めてこの縁談をまとめたいと言って来た。
 この稲葉家の厚意は一層事をめんどうにした。そこには、どこまでも生家《さと》と青山の家との旧好を続けたいという継母おまんが強い意志も働き、それほどの先方の厚意を押し切るということは、半蔵としても容易でなかったからである。
 武士としてもすぐれた坂本孫四郎(号天山)のような人を祖父に持つおまんの心底をたたくなら、半蔵なぞはほとんど彼女の眼中にない。彼女に言わせると、これというのも実は半蔵が行き届かないからだ。彼半蔵が平常も人並みではなくて、おかしい事ばかり。そのために彼女まで人でなしにされて、全く生家《さと》の人たちには合わせる顔がない。彼女はその調子だ。このおまんは傷口の直ったばかりのような孫娘を自分の前に置いて、まだ顔色も青ざめているお粂に、いろいろとありがたい稲葉家の厚意を言い聞かせた。なお、あまりに義理が重なるからとおまんは言って、栄吉その他のものまで頼み、それらの親戚《しんせき》の口からも、さまざまに理解するよう娘に言いさとした。お粂はそこへ手をついて、ただただ恥ずかしいまま、お許しくだされたいとばかり。別に委細を語らない。これにはおまんも嘆息してしまった。
 半蔵は、血と血の苦しい抗争が沈黙の形であらわれているのをそこに見た。いろいろと生家《さと》に掛けた費用のことを思い、世間の評議をも懸念《けねん》して、これがもし実の孫子《まごこ》であったら、いかようにも分別があると言いたげな飽くまで義理堅い継母の様子は、ありありとその顔色にあらわれていた。お粂は、と見ると、これはわずかに活《い》き返ったばかりの娘だ。せっかく立て直ろうとしている小さな胸に同じ事を苦しませるとしたら、またまた何をしでかすやも測りがたかった。この際、彼の取るべき方法は、妻のお民と共に継母をなだめて、目に見えない手枷《てかせ》足枷《あしかせ》から娘を救い出すのほかはなかった。
「ますます単純に。」
 その声を彼は耳の底にききつけた。そして、あとからあとから彼の身辺にまといついて来る幾多の情実を払いのけて、新たな路《みち》を開きたいとの心を深くした。今は躊躇《ちゅうちょ》すべき時でもなかった。彼としては、事を単純にするの一手だ。
 そこで彼は稲葉氏あてに、さらに手紙を書いた。それを南殿村への最後の断わり
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