曾にも少なくなると思わせるのもこの隠居だ。
「いや、変わるはずですね。」とまた得右衛門が言った。「御本陣の主人が先に立って惜しげもなく髪を短くする世の中ですからね。戸長さんがあのとおりの散髪なのに、副戸長が髷《まげ》ではうつりが悪い。実蔵のやつもそんなことを言い出しましてね、あれもこないだ切りました。その前の晩に、髪結いを呼ぶやら、髪を結わせるやら――大騒ぎ。これが髷のお別れだ、そんなことを言って、それから切りましたよ。そう言えば、半蔵さんはまだ総髪《そうがみ》ですかい。」
「ええ、うちじゃ総髪にして、紫の紐《ひも》でうしろの方を結んでいますよ。」とお民が答える。
「半蔵さんで思い出した。そう、そう、あの暦の方の建白は朝廷の御採用にならなかったそうですね。さぞ、半蔵さんも残念がっておいででしょう。わたしは寿平次さんからその話を聞きましたが。」
 この半蔵の改暦に関する建白とは、かなり彼の心をこめたもので、新政府が太陽暦を採用する際に、暦のような国民の生活に関係の深いものまで必ずしもそう西洋流儀に移る必要はなく、この国にはこの国の風土に適した暦もあっていいとの趣意から、当局者の参考にと提出したのであった。それは立春の日をもって正月元日とする暦の建て方である。彼は仮に「皇国暦」とその名を呼んで見た。不幸にも、この建白は万国共通なものを持とうとする改暦の趣意に添いがたいとのかどで、当局者の耳を傾けるところとはならなかった。
 お民は言った。
「なんですか、わたしにゃよくわかりませんがね、うちでもかなり残念がってはいるようですよ。」


 当時、民間有志の建白はそうめずらしいことでもない。しかし新政府で採用した太陽暦もまだ試みのような時のことで、それにつながる半蔵の建白はとかく郷里の人の口に上っていた。狭い山の中ではそうした意見の内容よりも建白そのものを話の種にして、さも普通でない行為か何かのようにうわさもとりどりである。中には、彼が落胆のあまり精神に異状を来たしたそうだなどと取りざたするものさえある。
 寿平次が戸長役場の方から戻《もど》って来るころには、得右衛門もまだ話し込んでいた。ふとお民は幼いものの泣き声を聞きつけ、付けて置いた下女のお徳の手から和助を受け取り、子供を仮寝させるによい仲の間の方へ抱いて行った。そこは兄が寛ぎの間に続いていて、部屋の唐紙《からかみ》のあいたところから隣室での話し声が手に取るように聞こえる。
「あれからですよ、どうも馬籠の青山は変わり者だという風評が立ったのは。」というのは兄の声だ。
「とかく、建白の一件は崇《たた》りますナ。」と得右衛門の声で。
「そんな変わり者だなんて言われたら、だれだって気持ちはよかない。あれで半蔵さんも『自分は奇人とは言われたくない、』と言っていますさ。」とまた兄の声で。
 夫のうわさだ。お民は片肘《かたひじ》を枕《まくら》に、和助に乳房《ちぶさ》をくわえさせ、子供がさし入れる懐《ふところ》の中の小さな手をいじりながら、隣室からもれて来る話し声に耳を澄ました。頑固《がんこ》なように見えて、その実、新しいものを受けいれ、時と共に推し移ろうとする兄と、めまぐるしく変わり行く世に迎合するでもなく、さりとて軽蔑《けいべつ》するでもなく、ただただながめ暮らしているような昔|気質《かたぎ》の得右衛門との間には、いろいろな話が出る。以前に比べると、なんとなくあの半蔵が磊落《らいらく》になったというものもあるが、半蔵は決して磊落な人ではないという話が出る。初めて一緒に江戸への旅をして横須賀《よこすか》在の公郷村《くごうむら》に遠い先祖の遺族を訪《たず》ねた青年の日から、今はすでに四十二歳の厄年《やくどし》を迎えるまでの半蔵を見て来た寿平次には、すこしもあの人が変わっていないという話も出る。なるほど、水戸《みと》の学問が興ったころから、その運動もまたはなやかであったころから、それと並んで復古の事業にたずさわり、ここまで道を開《あ》けるために百方尽力したは全国四千人にも達する平田|篤胤《あつたね》没後の諸門人であり、その隠れた骨折りは見のがすべきではないけれども、中津川の景蔵、香蔵、馬籠の半蔵なぞの同門の友だち仲間が諸先輩から承《う》け継いだ国学で、どうこの世界の波の押し寄せて来た時代を乗ッ切るかは見ものだという話なぞも出る。
「痛《いた》」
 思わずお民は添い寝をしている子供の鼻をつまんだ。子供が乳房をかんだのだ。お民は半ば身を起こすようにした。彼女はそっと子供のそばを離れ、おばあさんやお里のいる方へ一緒になりに行こうとしたが、そのたびに和助が無心な口唇《くちびる》を動かして、容易に母親から離れようとしなかった。

       五

「まあ、お前のように、そう心配したものでもないよ。」
 こういうおばあさんの声を聞いたのは、やがてお民が妻籠を辞し去ろうとする四日目の朝である。たとい今度の里帰りには、娘お粂のことについてわざわざ来たほどのよい知恵も得られず、相談らしい相談もまとまらずじまいではあっても、無事でいるおばあさんたちの顔を見て慰められたり励まされたりしたというだけにも彼女は満足しようとした。
 そこへお里も来て、
「お民さん、まだお粂の御祝言《ごしゅうげん》までには間もあることですから、気に入った着物でも造ってくれて、様子をごらんなさるさ。」
「そうだとも。」とおばあさんも言う。
「そのうちにはお粂の気も変わりますよ。」とまたお里がなんとなく夫寿平次に似て来たような冷静なところを見せて言った。「いくら読み書きの好きな娘だって、十八やそこいらで、そうはっきりした考えのあるもんじゃありませんよ。」
「お里の言うとおりさ。好きな小袖《こそで》でも造ってくれてごらん。それが何よりだよ。わたしたちの娘の時分には、お前、自分の箪笥《たんす》ができるのを何よりの楽しみにして、みんな他《よそ》へ嫁《かたづ》いたくらいだからねえ。」
 とおばあさんも言葉を添えた。子から孫の代を見て、曾孫《ひいまご》まであるこのおばあさんは、深窓に人となった自分の娘時分のことをそこへ持ち出して見せた。ことに、その「箪笥」には力を入れて。
 こんなことで、お民はそこそこに戻《もど》りのしたくした。馬籠の方に彼女を待つ夫ばかりでなく、娘のことも心にかかって、そう長くは生家《さと》に逗留《とうりゅう》しなかった。うこぎの芽にはやや早く、竹の子にもまだ早くて、今は山家も餅草《もちぐさ》の季節であるが、おばあさんはたまの里帰りの孫娘のために、あれも食わせてやりたい、これも食わせてやりたいと言う。その言葉だけでお民にはたくさんだった。来た時と同じように、彼女は鈴の鳴る巾着《きんちゃく》を和助の腰にさげさせ、それから下女のお徳の背におぶわせた。
「あれ、お民、もうお帰りかい。それでも、あっけない。和助もまたおいでや。この次ぎに来る時は大きくなっておいでや。まだまだおばあさんも達者《たっしゃ》で待っていますよ。」
 このおばあさんにも、お民は別れを告げて出た。
 街道には、伊勢参宮《いせさんぐう》の講中《こうじゅう》なぞが群がり集まるころである。木曾路ももはや全く以前のような木曾路ではない。お民の亡《な》き舅《しゅうと》、吉左衛門なぞが他の宿役人を誘い合わせ、いずれも定紋付きの麻の※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《かみしも》を着用して、一通行あるごとに宿境《しゅくざかい》まで目上の人たちを迎えたり送ったりしたころの木曾路ではもとよりない。古い駅路の光景も変わった。あの諸大名が多数の従者を引きつれ、お抱《かか》えの医者までしたがえて、挾箱《はさみばこ》、日傘《ひがさ》、鉄砲、箪笥《たんす》、長持《ながもち》、その他の諸道具の行列で宿場宿場を埋《うず》めたような時は、もはや後方《うしろ》になった。まだそれでも明治二年のころあたりまでは、ぽつぽつ上京する大名や公卿《くげ》の通行を見、二十人から八十人までの縮小した供数でこの街道を通り過ぎて行ったが、それすら跡を絶つようになった。
「さあ。早くおいで。」
 とお民はあとから山の中の街道を踏んで来るお徳を促した。そして、彼女が兄の口ぶりを借りて言えば、「土屋総蔵時代とは、まるで善悪の対照を見せつけられる」筑摩県の官吏を相手にして、尾州藩の手を離れてからこのかた、今や木曾山を失おうとする地方《じかた》の人民のために争えるだけ争おうとしているような夫半蔵の方へ帰って行った。
 諸方の城郭も、今は無用の長物として崩《くず》されるまっ最中だ。上松《あげまつ》宿の原畑役所なぞが取り払われたのは、早くも明治元年のことである。それは尾州藩で建てた上松の陣屋とも、または木曾御材木役所とも呼び来たったところである。お民が人のうわさによく聞いた木曾福島の関所の建物、彼女の夫がよく足を運んだ山村氏の代官屋敷――すべてないものだ。二百何十年来この木曾地方を支配するようにそびえ立っていたあの三|棟《むね》の高い鱗茸《こけらぶ》きの代官屋敷から、広間、書院、錠口《じょうぐち》より奥向き、三階の楼、同心園という表居間《おもていま》、その他、木曾川に臨む大小三、四十の武家屋敷はことごとく跡形もなく取り払われた。
 どれほどの深さに達するとも知れないような、この大きな破壊のあとには何が来るか。世にはいろいろと言う人がある。徳川十五代将軍が大政奉還を聞いた時に、よりよい古代の復帰を信じて疑わなかったような平田門人としても、彼女の夫たちはなんらかの形でこれに答えねばならなかった。



底本:「夜明け前 第二部(上)」岩波文庫、岩波書店
   1969(昭和44)年3月17日第1刷発行
   2000(平成12)年5月15日第27刷改版
底本の親本:「改版本『夜明け前』」新潮社
   1936(昭和11)年7月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:大野晋、砂場清隆
校正:原田頌子
2001年6月27日公開
2009年11月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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