東征の進路を開かせようとしたことは、復古の大業を遂行する上にすくなからぬ便宜となったことを記憶しなければならない。
尾州とても、藩論の分裂をまぬかれたわけでは決してない。過ぐる年の冬あたりから、尾張藩の勤王家で有力なものは大抵御隠居(徳川|慶勝《よしかつ》)に従って上洛《じょうらく》していたし、御隠居とても日夜京都に奔走して国を顧みるいとまもない。その隙《すき》を見て心を幕府に寄せる重臣らが幼主元千代を擁し、江戸に走り、幕軍に投じて事をあげようとするなどの風評がしきりに行なわれた。もはや躊躇《ちゅうちょ》すべき時でないと見た御隠居は、成瀬正肥《なるせまさみつ》、田宮如雲《たみやじょうん》らと協議し、岩倉公の意見をもきいた上で、名古屋城に帰って、その日に年寄|渡辺《わたなべ》新左衛門、城代格|榊原勘解由《さかきばらかげゆ》、大番頭《おおばんがしら》石川|内蔵允《くらのすけ》の三人を二之丸向かい屋敷に呼び寄せ、朝命をもって死を賜うということを宣告した。なお、佐幕派として知られた安井長十郎以下十一人のものを斬罪《ざんざい》に処した。幼主元千代がそれらの首級をたずさえ、尾張藩の態度を朝野に明
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