諒[#二]知斯旨[#一]《かっこくこうしこのむねをりょうちせよ》。」
慶応四年正月十日[#地から2字上げ]御諱《おんいみな》
[#ここで字下げ終わり]
ともかくも、その日は日本の天皇が外国に対する御親政の始めであった。
午後に、英国公使パアクスは東久世通禧と三宮英人殺傷事件の交渉談判を開いた。パアクスも当時の国情の殺気に満ちた情景は知りつくしていたから、あえてそう難題を持ち出そうとしなかった。即日にも穏やかに神戸の占領を解こうと言って、早速《さっそく》陸戦隊を引き揚げることを承諾した。それにはこの事件の本犯者を厳罰に処して将来の戒めとする事、日本政府はよろしく陳謝の意を表する事とを条件とした。
やかましい三宮事件もこんなふうで、一気に解決を告げることになった。パアクスは双方の豊かな頬《ほお》に縮れ髯《ひげ》をたくわえている男だが、その時いささか得意げにその頬髯をなでて、
「自分は京都新政府に好意を表するため、かくも穏やかな取り計らいをした。これは御国に対し懇切な心から出た次第で、隔意のある事ではない。他の外国が交渉談判を開くとはわけ違いである。もしこれが他の外国人の殺傷の場合ででもあると、なかなかこんなわけにはまいるまい。」
こういう意味のことを彼は通訳の書記官ミットフォードに言わせた。そして自分の言うことをわかってくれたかという顔つきで、堅い握手を求めるために、イギリス人らしい大きな手を東久世通禧の方に差し出した。
パアクスは高い心の調子でいる時であった。この英国公使は前公使アールコックの方針を受け継いだ人で、かつては敵として戦った薩長《さっちょう》両藩の人士と握手する位置に立ち、兵器弾薬の類《たぐい》まで援助を惜しまないについては、その意見にも相応な理由はあった。この人に言わせると、今日世界はすでに全く開けて、いずれの国も皆交際しないものはない。国と国とが交わる以上は、人情もあまねく交わらないわけにいかない。物貨とてもそのとおりであろう。交易の道は小さな損害のないとは言えないが、しかしその小さな損害を恐れてそれを妨げるなら、必ず大艱難《だいかんなん》を引き出すようになる。ヨーロッパ人はもう長いことそれを経験して来た。在来の東洋諸国を見るに、多く皆|旧《ふる》くからの習慣を固守するばかりだ。貿易を制限するところがあり、居留地を限るところがあり、交際の退歩するところがある。我《われ》は開くことを希望するし、彼は鎖《とざ》すことを希望する。そんなふうに競い合って行って、彼も迫り我も迫って互いに一歩も譲らないとなると、勢い銃剣の力をかりないわけにいかなくなる。互いの事情を斟酌《しんしゃく》する必要がそこから起こって来る。それには「真知」をもってせねばならない。そもそも外国人は何のために日本へ来るのであるか。ほかでもない、政府と親しくし、日本人とも親しく交わりたいがためである。交易以来、そのために貧しくなった国はまだない。万一、一方の損になるばかりなら、その交易は必ずすたれる。双方に利があれば必ず行なわれもするし、必ず富みもする。交易をすれは物価が高くなる。物価が高くなれば輸出の減るということも起こって来る。輸入品が多くなれば交易のできなくなることもある。だから節制しないうちに自然と節制があるようなもので、交易は常に氾濫《はんらん》に至らない。国内の人民も物を欠くに至らない。約《つづ》めて言えば、人類の交際は明白な直道で、いじけたものでもなく、曲がりくねったものでもないのに、何ゆえに日本はこんなに外国を嫉視《しっし》するのであるか。外人の居住するものは同盟条約の中について日本のためにならないことがあるのであるか。日本治国の体裁に害あることがあるのであるか。条約の精神が行き渡るなら、今日すでに日本国じゅうのものが交易の利を受けて、おのおのその便利を喜ぶであろう。決して今日のように人心動揺して外人を讐敵《かたき》のように見ることはあるまい。この排外は、全く今までの幕府政治の悪いのと、外交以来諸藩の費用のおびただしいとによっておこって来た。この形勢を打破するには、見識ある日本諸侯の力に待たねばならない。薩長両藩の有志者のごときは実に国を憂うるものと言うべきである。これがアールコック以来の方針を押し進め、徳川の旧勢力に見切りをつけたパアクスの言い分であった。今では彼は各国公使仲間の先頭に立って、いまだに江戸旧幕府に執着するフランスを冷笑するほどの鼻息の荒さである。
このパアクスだ。後は東久世通禧に約したように、兵庫神戸の警衛を全く長州兵の手に任せて、早速街道両口の木柵《もくさく》を取り払わせ、上陸中の外国兵をそれぞれ軍艦に引き揚げさせ、なお、港内に抑留してあった諸藩の運送船をも解放した。のみならず、彼は兵庫にある仮の居館
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