を試みたところ、一人の英人はかくしの中に入れていたナイフを執ってそれに抵抗する態度を示したというからたまらない。備前兵は怒《おこ》って一人を斃《たお》し、一人を傷つけたのだ。外国陸戦隊の上陸は、こんな殺傷の結果であった。何にせよ相手は生麦事件以来、強硬な態度で聞こえたイギリスであり、それに兵庫にはこんな際の談判に当たるべき肝心な奉行もいない。兵庫奉行|柴田剛中《しばたごうちゅう》は幕府の役人であるところから、社会に変革が起こると同時に危難のその身に及ぶことを痛く恐怖して、疾《と》くに姿を隠してしまった。この人がのがれる時には、宿駕籠《しゅくかご》に身を投げ、その外部を筵《むしろ》でおおい、あたかも商家の船荷のように擬装して、人をして海岸にかつぎ出させ、それから船に乗って去ったというくらいだ。こんな空気の中で、夕やみが迫って来た。多くの住民の中には家財諸道具を片づけるものがある。ひそかにそれを近村へ運ぶものがある。年寄りや子供を遠くの農家へ避難させるものもある。
 たまたま、三百余人の長州藩《ちょうしゅうはん》の兵士を載せた船が大坂方面からその夜の中に兵庫の港に着いた。おそらく京坂地方もすでに鎮定したので、関税その他を新政府の手に収めることを先務として、兵庫開港場警衛の命を受けて来た人たちであったろう。英国兵はそれとは知らないから、備前藩の兵が大挙してやって来たのだと誤り認めて、まさに発砲するばかりになった。長州兵がそうでないと告げても、外人は信じない。長州兵の中には怒って外人の無礼を懲らそうと主張するものが出て来た。こうなると、町々は焼き払われるだろうと言って、兵火の禍《わざわ》いに罹《かか》ることを恐れる声が一層住民を狼狽《ろうばい》させた。長州兵の隊長は本陣|高崎弥五平《たかさきやごへい》方に陣取ったが、同藩の定紋を印《しる》した高張提灯《たかはりぢょうちん》一対を門前にさげさせて、長州藩の兵士たることを証し、なおその弥五平宅で英国士官と談判した。その時になって外人も備前藩の兵でないだけは諒解《りょうかい》したが、しかしこの地の占領を解くことを断じて肯《がえん》じない。長州兵はやむを得ないで奥平野《おくひらの》村の禅昌寺《ぜんしょうじ》に退いた。そこを宿衛の本拠として、その夜のうちに兵庫その他の警衛に従事した。そして非常を戒めた。
 過ぐる半月あまり安い思いも知らなかった兵庫神戸の住民が全く枕《まくら》を高くして眠ることのできるようになったのは、この長州兵を迎えてからであった。住民はかわるがわる来て、市中の取り締まりについた長州兵に、過ぐる日夜の恐ろしかったことを告げた。幕府廃止以来、世態の急激な変化は兵庫奉行の逃亡となり、代官手代、奉行付き別隊組兵士なぞは位置の不安と給料の不渡りから多く無頼《ぶらい》の徒と化したことを告げた。それらの手合いは自称浪士の輩《ともがら》と共に市中を横行し、あだかも押し借り強盗にもひとしい所行に及び、ひどいのになると白昼人家の門を破って住民を脅迫するやら、掠奪《りゃくだつ》をほしいままにするやら、ほとんど一時は無統治、無警察の時代を顕出したことを告げた。外国陸戦隊の上陸はこんな際で、住民各自に自衛の方法を講じつつ、いずれも新しい統治者を待ちわびているところであると告げた。
 今や長州兵を迎えて、町々村々の人たちはようやくわずかに互いの笑顔《えがお》を見ることができた。幕府の役人を忌むことが深いだけ、長州兵に信頼することも厚い。あるものは幕府の命によって居留地工事を負担した一役人が巨額の工事金を古井戸の中に埋《うず》めていると告げに来る。あるものは大坂奉行所から新設道路工事を請け負った一役人がその土木工事金を隠匿していると告げに来る。ある事、ない事が掘り出された。在来幕府時代からの諸役人に対して土地のものが抱《いだ》いていた快くない感情までが一緒になって、一時にそこへ発して来た。だれが思いついて、だれがそれに調子を合わせるとも言えないような「えいじゃないか」のめずらしい声が、町々にはわくように起こって来た。


 はやし立てる「ええじゃないか」の騒ぎは正月十四日になってもまだやまない。その群集の声は神戸の海浜にある新しい運上所(税関)にまで響き伝わっていた。
 そこはいわゆる「びいどろの家」である。ガラス板でもって張った窓のある家もまだ神戸|界隈《かいわい》に見られないころに、開港の記念としてできた最初の和洋折衷の建築である。大坂の居館を去って兵庫の方に退いていた各国公使らは、それぞれ通訳に巧みな書記官をしたがえ、いずれも礼服着用で、その二階の広間に集まりつつあった。英国特派全権公使兼総領事パアクス、仏国全権公使ロセス、伊国特派全権公使トゥール、普国代理公使ブランド、オランダ公務代理総領事ブロッ
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