いたところから隣室での話し声が手に取るように聞こえる。
「あれからですよ、どうも馬籠の青山は変わり者だという風評が立ったのは。」というのは兄の声だ。
「とかく、建白の一件は崇《たた》りますナ。」と得右衛門の声で。
「そんな変わり者だなんて言われたら、だれだって気持ちはよかない。あれで半蔵さんも『自分は奇人とは言われたくない、』と言っていますさ。」とまた兄の声で。
 夫のうわさだ。お民は片肘《かたひじ》を枕《まくら》に、和助に乳房《ちぶさ》をくわえさせ、子供がさし入れる懐《ふところ》の中の小さな手をいじりながら、隣室からもれて来る話し声に耳を澄ました。頑固《がんこ》なように見えて、その実、新しいものを受けいれ、時と共に推し移ろうとする兄と、めまぐるしく変わり行く世に迎合するでもなく、さりとて軽蔑《けいべつ》するでもなく、ただただながめ暮らしているような昔|気質《かたぎ》の得右衛門との間には、いろいろな話が出る。以前に比べると、なんとなくあの半蔵が磊落《らいらく》になったというものもあるが、半蔵は決して磊落な人ではないという話が出る。初めて一緒に江戸への旅をして横須賀《よこすか》在の公郷村《くごうむら》に遠い先祖の遺族を訪《たず》ねた青年の日から、今はすでに四十二歳の厄年《やくどし》を迎えるまでの半蔵を見て来た寿平次には、すこしもあの人が変わっていないという話も出る。なるほど、水戸《みと》の学問が興ったころから、その運動もまたはなやかであったころから、それと並んで復古の事業にたずさわり、ここまで道を開《あ》けるために百方尽力したは全国四千人にも達する平田|篤胤《あつたね》没後の諸門人であり、その隠れた骨折りは見のがすべきではないけれども、中津川の景蔵、香蔵、馬籠の半蔵なぞの同門の友だち仲間が諸先輩から承《う》け継いだ国学で、どうこの世界の波の押し寄せて来た時代を乗ッ切るかは見ものだという話なぞも出る。
「痛《いた》」
 思わずお民は添い寝をしている子供の鼻をつまんだ。子供が乳房をかんだのだ。お民は半ば身を起こすようにした。彼女はそっと子供のそばを離れ、おばあさんやお里のいる方へ一緒になりに行こうとしたが、そのたびに和助が無心な口唇《くちびる》を動かして、容易に母親から離れようとしなかった。

       五

「まあ、お前のように、そう心配したものでもないよ。」
 こういうおばあさんの声を聞いたのは、やがてお民が妻籠を辞し去ろうとする四日目の朝である。たとい今度の里帰りには、娘お粂のことについてわざわざ来たほどのよい知恵も得られず、相談らしい相談もまとまらずじまいではあっても、無事でいるおばあさんたちの顔を見て慰められたり励まされたりしたというだけにも彼女は満足しようとした。
 そこへお里も来て、
「お民さん、まだお粂の御祝言《ごしゅうげん》までには間もあることですから、気に入った着物でも造ってくれて、様子をごらんなさるさ。」
「そうだとも。」とおばあさんも言う。
「そのうちにはお粂の気も変わりますよ。」とまたお里がなんとなく夫寿平次に似て来たような冷静なところを見せて言った。「いくら読み書きの好きな娘だって、十八やそこいらで、そうはっきりした考えのあるもんじゃありませんよ。」
「お里の言うとおりさ。好きな小袖《こそで》でも造ってくれてごらん。それが何よりだよ。わたしたちの娘の時分には、お前、自分の箪笥《たんす》ができるのを何よりの楽しみにして、みんな他《よそ》へ嫁《かたづ》いたくらいだからねえ。」
 とおばあさんも言葉を添えた。子から孫の代を見て、曾孫《ひいまご》まであるこのおばあさんは、深窓に人となった自分の娘時分のことをそこへ持ち出して見せた。ことに、その「箪笥」には力を入れて。
 こんなことで、お民はそこそこに戻《もど》りのしたくした。馬籠の方に彼女を待つ夫ばかりでなく、娘のことも心にかかって、そう長くは生家《さと》に逗留《とうりゅう》しなかった。うこぎの芽にはやや早く、竹の子にもまだ早くて、今は山家も餅草《もちぐさ》の季節であるが、おばあさんはたまの里帰りの孫娘のために、あれも食わせてやりたい、これも食わせてやりたいと言う。その言葉だけでお民にはたくさんだった。来た時と同じように、彼女は鈴の鳴る巾着《きんちゃく》を和助の腰にさげさせ、それから下女のお徳の背におぶわせた。
「あれ、お民、もうお帰りかい。それでも、あっけない。和助もまたおいでや。この次ぎに来る時は大きくなっておいでや。まだまだおばあさんも達者《たっしゃ》で待っていますよ。」
 このおばあさんにも、お民は別れを告げて出た。
 街道には、伊勢参宮《いせさんぐう》の講中《こうじゅう》なぞが群がり集まるころである。木曾路ももはや全く以前のような木曾路ではない。お民
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