なうれしいことはないと言ってやったほどだ。半蔵はまた半蔵で、「うちの祖母《おばあ》さんの言うことも聞かないようなものは、自分の娘じゃない」と言っているくらいの人だから、かつておまんに逆らおうとしたためしもない。その祖母に対しても、お粂はこの縁談を拒み得なかった。伊那からはすでに二度も仲人《なこうど》が見えて、この二月には結婚の日取りまでも申し合わせた。先方としては、五、六、七、八の四か月を除けば、それ以外の何月に定めてもいいとある。そこで、こちらは娘のために来たる九月を選んだ。そのころにでもなれば、半蔵のからだもいくらかひまになろうと見越したからで。意外にも、お粂は悲しみに沈んでいるようで、母としてのお民にはそれが感じられるというのであった。
「なにしろ、うちじゃあのとおり夢中でしょう。木曾山のことを考え出すと、夜もろくろく眠られないようですよ。わたしはそばで見ていて、気の毒にもなってさ。まずまず縁談もまとまったものだから、こまかいことはお前たちによろしく頼むとばかり。お粂のことでそうそう心配もさせられないじゃありませんか。」とお民は言って見せる。
「いったい、この話がまとまったのは去年の春ごろじゃなかったか。あれから一年にもなる。もっと早く諸事進行しなかったものか。」と言い出したのは寿平次だ。
「そんな、兄さんのような。」とお民は承《う》けて、「そりゃ、話がまとまるとすぐ伊那の方へ手紙を出して、結納《ゆいのう》の小袖《こそで》も、織り次第、京都の方へ染めにやると言ってやったくらいですよ。ごらんなさいな、織って、染めて、それから先方へ送り届けるんじゃありませんか。」
「いや、なかなか男の言うような、そんな無造作なわけにいかすか。まず織ることからして始めにゃならんで。」とおばあさんも言葉をはさんだ。
「おれに言わせると、」とまた寿平次が言い出した。「この話は、すこし時がかかり過ぎたわい。もっとずんずん運んでしまうとよかった。娘が泣いてもなんでも、皆で寄ってたかって、祝っちまう――まずそれが普通さ。そのうちにはかわいい子供もできるというものだね。」
「お粂はことし幾つになるえ。」とおばあさんはお民にきく。
「あの子も十八になりますよ。」
「あれ、もうそんなになるかい。」と言って、おばあさんはお民の顔をつくづくと見て、「そうだろうね、吉左衛門さんの三年がとっくに来たからね。」
「して見ると、わたしたちが年を取るのも不思議はありませんかねえ。」とお里もそばにいて言葉を添える。
「何かなあ。あれでお粂も娘の一心に何か思いつめたことでもあるのかなあ。」と寿平次が言った。
「それがですよ。」とお民は答える。「許嫁《いいなずけ》の人のことでも忘れられないのかというに、どうもそうじゃないらしい。」
「それで、何かえ。お粂はどんなようすだえ。」とまたおばあさんがきく。
「わたしが何をたずねても、うつむいて、沈んでばかりいますよ。」
「そりゃ言えないんだ。」と寿平次は考えて、「ああいう早熟な子にかぎって、そういうことはあることだよ。」
「ほんとに、妙な娘ができてしまいました。あの年で、神霊《みたま》さまなぞに凝って――まあ、お父《とっ》さん(半蔵)にそっくりなような娘ができてしまいました。」
「でも、お民、おれはいい娘だと思う。」
と寿平次は言って、その晩の話はお粂のようすを聞いて見るだけにとどめようとした。お民の方でも、それを生家《さと》の人たちの耳に入れるだけにとどめて、おばあさんや兄の知恵を借りに来たとはまだ言い出せなかった。
馬籠峠の上ともちがい、木曾も西のはずれから妻籠まではいると、大きな谷底を流れる木曾川の音が日によって近く聞こえる。お民は久しぶりでその音を耳にしながら、その晩は子供と一緒におばあさんのそばに寝た。
四
翌朝になると、寿平次の家では街道に接した表門のところへ新しい掛け札を出す。
信濃国、妻籠駅、郵便御用取扱所
青山寿平次
こんな掛け札もお民としては初めて見るものだ。近く配達夫になったばかりのような村の男も改まった顔つきをしてやって来る。店座敷はさしあたり郵便事務を取り扱うところにあてられていて、そこの壁の上には新たに八角型の柱時計がかかり、かちかちという音がし出した。
まだわずかしか集まらない郵便物を袋に入れて、隣駅へ送ること、配達夫に渡すべきものへ正確な時間を記入すること、妻籠駅の判を押すこと、すべてこれらのことを寿平次は問屋時代と同じ調子でやった。それから戸長らしい袴《はかま》をつけて、戸長役場の方へ出勤するしたくだ。
「なあに、郵便の仕事の方はまだ閑散なものさ。切手を貼《は》って出せば、手紙の届くということが、みんなにわからないんだね。それよりは飛脚
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