。足掛け三つになる琴柱はもうなんでも言える。それに比べると、お民の連れて来た和助は誕生後二か月にもなるが、まだ口がきけない。立って歩くこともできない。殻《から》から出たばかりの青い蝉《せみ》のように、そこいらの畳の上をはい回っている。
「はい、今日《こんち》は。」
琴柱が女の子らしいませた口のききかたをすると、和助はその方へお辞儀にはって行った。何をどう覚えたものか、この子供はむやみやたらとお辞儀だ。おばあさんの方へお辞儀に行けば、お里の方へもお辞儀に行く。まだ無心な目つきをした幼いもののすることに、そこに集まっているものは皆笑った。
「もうたくさん。」
とお民が言って見せると、和助はまたお辞儀をした。
「お民、この子はまだお乳かい。お誕生が済んだら、お前、もう御飯でもいいぜ。なんにしても今があぶないさかりだねえ。ほんとに、すこしも目は放せませんよ。」
とおばあさんも言ってみた。
母であることはお民を変えたばかりでなく、お里をも変えた。あれほど病気がちで子供のないのをさみしそうにしていたお里が、母親らしい肉づきをさえ見せて来た。めっきり世帯《しょたい》じみても来た。お里はもはや以前のように、いつお民があって見ても変わらないような、娘々しい人でもない。そういうお民も子供のことに心を奪われて、ほとんど他をかえりみる暇がない。木曾谷三十三か村の人民が命脈にもかかわるような山林事件のために奔走している夫半蔵のことよりも、自分の子供に風でも引かせまいとすることの方がお民には先であった。
寿平次も正己を連れて屋外《そと》から戻《もど》って来た。二人とも山遊びらしい軽袗《かるさん》ばきだ。兄はお民を見ると、自分の腰につけている軽袗の紐《ひも》をときながら、
「来たね。」
と相変わらずの調子だ。
寿平次も半蔵と同じように、今は新しい戸長の一人である。遠からず筑摩県地方は村々の併合が行なわれ、大区、小区の区制が設けられるはずで、そのあかつきには彼は八大区の区長としての候補者に定められているが、そんなことでも気をよくしている矢先であった。おまけに、お里には琴柱というかわいいものができて、行く行くは正己にめあわせられるという楽しみがあった。正己もめっきり成長した。すでに十三歳にもなる。来たる年には木曾福島の方へ送って、大脇自笑《おおわきじしょう》の塾《じゅく》にでも入門させ、自分のよい跡目相続としたい。そんな話が寿平次の口から出て来た。
妻籠にはまだ散切頭《ざんぎりあたま》も流行《はや》って来ない。多くのものの目にはその新しい風俗も異様に映る。その中で、今度お民が来て見た時は兄はすでにさっぱりとした散髪《さんぱつ》になっていた。
「どうだ、お民。おれに似合うか。」
と寿平次の言い草だ。
「半蔵さんもどうしているかい。」とまた寿平次がきく。
「兄さん、うちのいそがしさと来たら、見せたいよう。髭《ひげ》もろくに剃《そ》らずに飛び歩いていますよ。わたしが何をきいても、山林事件のためだとばかりで、くわしいことも話しません。」
「今度という今度は半蔵さんも全力をあげているらしい。おれも相談にはあずかってるし、大賛成じゃあるが、せめてこれが土屋総蔵の時代だとねえ。」
「そのことは、兄さん、うちでも言ってるようですよ。」
「そりゃ、名古屋県がこの木曾に出張所を置いて直接民政をやったころは、なんでも親切に、人民をよく教え導くという調子さ。あの土屋総蔵なぞは赴任して来ると、すぐ六人の官吏を連れて開墾その他の見分《けんぶん》にやって来たからね。あの時の見分は、贄川《にえがわ》から妻籠、馬籠まで。おれはあの権判事を地境《じざかい》へ案内した時のことを忘れない。木曾はこんな産馬地《うまどこ》だから、各村とも当歳の駒《こま》を取り調べて、親馬から、毛色、持ち主の名前まで書き出せというやり方だ。それからあの見分を済ましたあとで、村々へ回状を送ってよこしたが、その回状がまた振るってる。あれほど休泊の手当てに及ばないししたくも有り合わせでいいと言ってあるのに、うんとごちそうしてくれた村々がある。とかく官吏が旅行の際には不正な事も行なわれがちだから、今後ごちそうは無用だと書いてよこした。あれは明治三年の九月だ。そうだ、政府からは駅逓司《えきていし》の菊池大令史がこの地方へ出張して来たころだ。なんと言っても、土屋総蔵の時代はよかったよ。そのあとへ筑摩県の権判事として来た人が、今度は大いに暴威を振るおうとするんだから、まるで善悪の対照を見せつけられるようなものさね。こんな乱暴なやり口じゃ、今に地租の改正が始まっても、思いやられるナ。そりゃ、お民、あれほど半蔵さんが山林事件に身を入れて、いくらこの地方のために奔走しても、今の筑摩県の権判事がかわりでもしないうちはまず
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