ましたのは、前年二月十七日のことであった。総蔵は各村の庄屋が新しい戸長と呼ばれるのを見、そろそろ児童の就学ということが地方有志者の間に考えられるころに、それらの新しい教育事業までは手を着けないで木曾の人民に別れを告げて行った。
 すべてが試みでないものはないような時だ。太陽暦の採用以来、時の分《わか》ちも今は明けの何時《なんどき》、暮れの何時とは言わない。その年から昼夜二十四時に改められた。月日の繰り方もこれまでの暦にくらべると一か月ほど早い。これは前年十二月上旬をもって太陰暦の終わりとし、新暦による正月元日が前年の冬のうちに来たからであった。
 人心の一新はこんな暦からも。しかし、これまで小草山の口開《くちあ》けから種まきの用意まで一切はこの国固有の暦を心あてにして来た農家なぞにとっては、朔日《ついたち》だ十五日だということも月の満ち欠けに関係のないものはない。どうしても旧暦で年を取り直さなけれは新しい年を迎えた気もしないという村民のところへは、正月が一年に二度来る始末だ。多くの人々は新旧二通りの暦を煤《すす》けた壁に貼《は》りつけて置いて、新暦の四月一日が旧の三月幾日に当たると知らなければ、春分の感じが浮かぶはおろか、まだ季節の見当さえもつかなかった。
 その年から新たに祝日と定められた四月三日は、木曾路で初めて迎える神武天皇祭である。その日は一般に休業し、神酒《みき》を供え、戸々奉祝せよ。旧《ふる》い習慣を脱しないで五節句休業のものもあるが、はなはだ不心得の事である。今後祝日のほかは家業を怠るまいぞ。こんなお触れが、筑摩県|権令《ごんれい》の名で駅々村々へ回って来る。あざやかな国旗が石を載せた板屋根の軒に高く掲げられるのも、これまでの山の中には見られなかった図だ。
 半蔵の妻お民も、今は庄屋の家内でなくて、学事掛《がくじがか》りを兼ねた戸長の家内であるが、その祝日の休業を機会に、兄寿平次の家族を訪《たず》ねようとして馬籠の家を出た。もっとも、この訪問は彼女|一人《ひとり》でもない。彼女と半蔵との間には前年の二月に四男の和助《わすけ》が生まれて、その幼いものと下女のお徳とを連れていた。馬籠から奥筋へと続く木曾街道はお民らの目にある。ところどころの垣根《かきね》には梅も咲く。彼女らは行く先に日の丸の旗の出ている祝日らしい山家のさまをながめながめ、女の足で二里ばかりの道を歩いて、午後に妻籠《つまご》の生家《さと》に着いた。

       二

 お民はある相談をもって妻籠のおばあさんや兄寿平次を見に来た。その相談は、娘お粂《くめ》の縁談に関する件で、かねて伊那の南殿村、稲葉《いなば》という家は半蔵が継母おまんの生家《さと》に当たるところから、おまんの世話で、その方にお粂の縁談がととのい、前年の冬には南殿村から結納《ゆいのう》の品々を送って来て、その年の二月の声を聞くころはすでに結婚の日取りを申し合わせるまでに運んだのであった。今度のお民の妻籠訪問はその報告というばかりでなく、兄夫婦の耳にも入れて相談したいと思って来たことがあるからで。
 お民ももう五人の子の母である。兄の家にもらわれて来ている次男の正己《まさみ》と、三男の森夫との間には、二人《ふたり》まで女の子を失ったが、それらの早世した幼いものまで合わせると七人もの子をなした年ごろに達している。今さら、里ごころでもあるまいに。しかし、その年になっても妻籠に帰って来て見ると、やはりおばあさんのそばは彼女にとって自分の家らしかった。ちょうど寿平次は正己を連れ、近くに住む得右衛門を誘い合わせ、祝日の休暇を見つけて山遊びに出かけた留守のおりであったが、年老いてまだ元気なおばあさんは孫のよめに当たるお里を相手に、妻籠旧本陣の表庭にいて手造りの染め糸を乾《ほ》すところであった。男の下着の黄八丈《きはちじょう》にでも織るものと見えて、おばあさんたちが風通しのいいところへ乾している糸の好ましい金茶であるのもお民の目についた。古くから山地の農民の間に実用されて来たように、おばあさんはその黄色な染料を山の小梨《こなし》に取ることから、木槌《きづち》で皮を砕き、日に乾し、煎《せん》じて糸を染めるまで、そういうことをよく知っていた。縫うこと、織ること、染めること、すべてこのおばあさんに仕込まれて、それをまた娘のお粂に伝えているお民としては、たまの里帰りが彼女自身の娘の昔を思い出させないものはない。
 やがて天井の高い、広い囲炉裏ばたでは、おばあさんはじめお里やお民が黒光りのする大黒柱の近くに集まって、一しきり子供の話で持ちきった。お里と寿平次の間には長いこと子供がなく、そのために正己を馬籠から迎えて養っていたほどであるが、結婚後何年ぶりかでめずらしい女の子が生まれた。琴柱《ことじ》がその子の名だ
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