ろがあった。上御一人《かみごいちにん》ですら激しい動きに直面したもうほどの今の時に、下のものがそう静かにしていられるはずもないと。
 伊之助は、爪《つめ》をかみながら、黙って半蔵の言うことを聞いていた。半蔵の耳はまた、やや紅《あか》かった。
「しかし、伊之助さんも御苦労さまでした。お互いに長い御奉公でした。」
 とまた半蔵は言い添えた。
 もはや諸道具一切は伝馬所の方へ運び去られている。半蔵は下男の佐吉を呼んで、戸をしめ、鍵《かぎ》をかけることを言いつけて置いて、やがて伊之助と共に会所の前を立ち去った。

       六

 平田延胤《ひらたのぶたね》の木曾街道を通過したのは、馬籠ではこの宿場改革の最中であった。延胤は東京からの帰り路《みち》を下諏訪《しもすわ》へと取り、熱心な平田|篤胤《あつたね》没後の門人の多い伊那の谷を訪《おとな》い、清内路《せいないじ》に住む門人原|信好《のぶよし》の家から橋場を経て、小昼《こびる》(午後三時)のころに半蔵の家に着いた。しばらく木曾路の西のはずれに休息の時を送って行こうとしていたのである。もっとも、この旅は延胤|一人《ひとり》でもない。門下の随行者もある。伊那からそのあとを追い慕って、せめて馬籠まではと言いながら見送って来た南条村の館松縫助《たてまつぬいすけ》のような人もある。
 延胤は半蔵が師|鉄胤《かねたね》の子息で、故翁篤胤の孫に当たる。平田同門のものは日ごろ鉄胤のことを老先生と呼び、延胤を若先生と呼んでいる。思いがけなくもその人を見るよろこびに加えて、一行を家に迎へ入れ、自分の田舎《いなか》を見て行ってもらうことのできるというは、半蔵にとって夢のようであった。木曾は深い谿《たに》とばかり聞いていたのにこんな眺望《ちょうぼう》のひらけた峠の上もあるかという延胤を案内しながら、半蔵は西側の廊下へ出て、美濃《みの》から近江《おうみ》の方の空のかすんだ山々を客にさして見せた。その廊下の位置からは恵那山につづく幾つかの連峰全部を一目に見ることはできなかったが、そこには万葉の古い歌にある御坂《みさか》も隠れているという半蔵の話が客をよろこばせた。彼は上段の間へ人々を案内して、その奥まった座敷で、延胤が今京都をさして帰る途中にあることから、かねて門人|片桐春一《かたぎりしゅんいち》を中心に山吹社中の発起になった条山《じょうざん》神社を伊那の山吹村に訪い、そこに安置せられた国学四大人の御霊代《みたましろ》を拝し、なお、故翁の遺著『古史伝』の上木頒布《じょうぼくはんぷ》と稿本全部の保管とに尽力してくれた伊那の諸門人の骨折りをねぎらいながら、行く先で父鉄胤に代わって新しい入門者に接して来たことなぞを聞いた。
 おまんやお民も茶道具を運びながらそこへ挨拶《あいさつ》に出た。半蔵はそのそばにいて、これは母、これは妻と延胤に引き合わせた。彼は先師の孫にも当たる人に自分の継母や妻を引き合わせることを深いよろこびとした。めずらしい客と聞いてよろこぶお粂《くめ》と宗太も姉弟《きょうだい》らしく手を引き合いながら、着物を着かえたあとの改まった顔つきで、これも母親のうしろからお辞儀に出た。半蔵の娘もすでに十四歳、長男の方は十二歳にもなる。
 延胤も旅を急いでいた。これから、中津川泊まりで行こうという延胤のあとについて、一緒に中津川まで行くことを半蔵に勧めるのも縫助だ。そういう縫助も馬籠まで来たついでに、同門の景蔵の家まで見送りたいと言い出す。これには半蔵も心をそそられずにはいられなかった。早速《さっそく》彼は隣家の伏見屋へ下男の佐吉を走らせ、伊之助にも同行のよろこびを分けようとした。伊之助は上の伏見屋の方にいて、そのために手間取れたと言いわけをしながら、羽織袴《はおりはかま》でやって来た。
「若先生です。」
 その引き合わせの言葉を聞くと、日ごろ半蔵のうわさによく出る平田先生の相続者とはこの人かという顔つきで、伊之助も客に会釈《えしゃく》した。
 一同中津川行きのしたくができた。そこで、出かけた。師鉄胤のうわさがいろいろと出ることは、半蔵の歩いて行く道を楽しくした。こんな際に、中央の動きを知ることは、彼にとっての何よりの励ましというものだった。彼は延胤一行の口から出ることを聞きもらすまいとした。過ぐる年の十月十三日に旧江戸城にお着きになった新帝にもいったん京都の方へ還御《かんぎょ》あらせられたと聞く。それは旧冬十二月八日のことであったが、さらに再度の東幸が来たる三月のはじめに迫っている。それを機会に、師鉄胤もお供を申し上げながら、一家をあげて東京の方へ移り住む計画であるという。延胤が旅を急いでいるのもそのためであった。飽くまで先師の祖述者をもって任ずる鉄胤の方は参与の一人として、その年の正月からは新帝の侍講に進み
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