だ。そこへ行くと、あの伏見屋の隠居はよくそれでもあんなにからだが続くと思うよ。年はおれより二つも上だが、あの人にはまだかんかん日があたってる。」
「かんかん日があたってるはようござんした。」とおまんも軽く笑って、「あれで金兵衛さんも、大事な子息《むすこ》さん(鶴松《つるまつ》)は見送るし、この正月にはお玉さん(後妻)のお葬式まで出して、よっぽどがっかりなさるかと思いましたが――」
「どうして、あの年になって、馬の七夜の祝いにでも招《よ》ばれて行こうという人だ。おれはあの金兵衛さんが、古屋敷の洞《ほら》へ百二十本も杉苗《すぎなえ》を植えたことを知ってる――世の中建て直しのこの大騒ぎの中でだぜ。あれほどのさかんな物欲は、おれにはないナ。おれなぞはお前、できるだけ静かにこの世の旅を歩きつづけて来たようなものさ。おれは、あの徳川様の代に仕上がったものがだんだんに消えて行くのを見た。おれも、もう長いことはあるまい……よくそれでも本陣、問屋、庄屋を勤めあげた。そうあの半六|親爺《おやじ》が草葉の陰で言って、このおれを待っていてくれるような気がする……」
「そんな、お父《とっ》さんのような心細いことを言うからいけない。」
「いや、半蔵には御嶽《おんたけ》の参籠《さんろう》までしてもらったがね、おれの寿命が今年《ことし》の七十歳で尽きるということは、ある人相見から言われたことがあるよ。」
「ごらんな、半蔵。お父さんはすぐあれだもの。」
 裏二階では、こんな話が尽きなかった。


 何から何まで動いて来た。過ぐる年の幕府が参覲交代制度を廃した当時には動かなかったほどの諸大名の家族ですら、住み慣れた江戸の方の屋敷をあとに見捨てて、今はあわただしく帰国の旅に上って来るようになった。
「お屋敷方のお通りですよ。」
 と呼ぶお粂《くめ》や宗太の声でも聞きつけると、半蔵は裏二階なぞに話し込んでいられない。会所に集まる年寄役の伊之助や問屋九郎兵衛なぞを助けて、人足や馬の世話から休泊の世話まで、それらのめんどうを見ねばならない。
 東海道回りの混雑を恐れるかして、この木曾街道方面を選んで帰国する屋敷方には、どこの女中方とか、あるいは御隠居とかの人たちの通行を毎日のように見かける。
「国もとへ。国もとへ。」
 その声は、過ぐる年に外様《とざま》諸大名の家族が揚げて行ったような解放の歓呼ではない。現にこの街道を踏んで来る屋敷方は、むしろその正反対で、なるべくは江戸に踏みとどまり、宗家の成り行きをも知りたく、今日の急に臨んでその先途も見届けたく、かつは疾病死亡を相訪《あいと》い相救いたい意味からも親近の間柄にある支族なぞとは離れがたく思って、躊躇《ちゅうちょ》に躊躇したあげく、太政官《だじょうかん》からの御達《おたっ》しや総督府参謀からの催促にやむなく屋敷を引き払って来たという人たちばかりである。
 将軍家の居城を中心に、大きな市街の六分通りを武家で占領していたような江戸は、もはや終わりを告げつつあった。この際、徳川の親藩なぞで至急に江戸を引き払わないものは、違勅の罪に問われるであろう。兵威をも示されるであろう。その御沙汰《ごさた》があるほど、総督府参謀の威厳は犯しがたくもあったという。西の在国をさして馬籠の宿場を通り過ぎる屋敷方の中には、紀州屋敷のうわさなどを残して行くものもある。そのうわさによると、上《かみ》屋敷、中《なか》屋敷、下《しも》屋敷から、小屋敷その他まで、江戸の市中に散在する紀州屋敷だけでも大小およそ六百戸の余もある。奥向きの女中を加えると、上下の男女四千余人を数える。この大人数が、三百年来住み慣れた墳墓の地を捨て、百五十里もある南の国へ引き揚げよと命ぜられても、わずか四、五日の間でそんな大移住が行ないうるものか、どうかと。半蔵らの目にあるものは、徳川氏と運命を共にする屋敷方の離散して行く光景を語らないものはない。茶摘みだ烙炉《ほいろ》だ筵《むしろ》だと騒いでいる木曾の季節の中で、男女の移住者の通行が続きに続いた。
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     第五章

       一

 五月中旬から六月上旬へかけて、半蔵は峠村の組頭《くみがしら》平兵衛《へいべえ》を供に連れ、名古屋より伊勢《いせ》、京都への旅に出た。かねて旧師|宮川寛斎《みやがわかんさい》が伊勢|宇治《うじ》の館太夫方《かんだゆうかた》の長屋で客死したとの通知を受けていたので、その墓参を兼ねての思い立ちであった。どうやら彼はこの旅を果たし、供の平兵衛と共に馬籠《まごめ》の宿をさして、西から木曾街道《きそかいどう》を帰って来る途中にある。
 留守中のことも案じられて、二人《ふたり》とも帰りを急いでいた。大津、草津を経て、京から下って来て見ると、思いがけない郷里の方のうわさがその途中で半蔵らの耳にはい
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