戦争にも及ぶことがあるなら、前もって各国へ布告もあるべきに、その沙汰もない。そういうことを申し立てて一本突ッ込んで来た外人らの多くは江戸開市を前に控えて、早く秩序の回復を希望するものばかりだ。神戸三宮《こうべさんのみや》事件に、堺旭茶屋《さかいあさひぢゃや》事件に、潜んだ攘夷熱はまだ消えうせない。各国公使のうちには京都の遭難から危うく逃げ帰ったばかりのものもある。外人らは江戸攻撃の余波が、横浜居留地に及ぶことを恐れて、容易に東海道軍の神奈川通過を肯《がえん》じない。ついには、外国軍艦の陸戦隊が上陸を見るまでになった。これには総督府も御心配、薩州らも当惑したとある。その筆者に言わせるとすでに、万国交際の道を開いた新政府側としては、東征軍の行動に関しても、外人らの意見を全く無視するわけには行かなかった。江戸攻撃を開始して、あたりを兵乱の巷《ちまた》と化し、無辜《むこ》の民を死傷させ、城地を灰燼《かいじん》に帰するには忍びないのみか、その災禍が外人に及んだら、どんな国難をかもさないものでもないとは、大総督府の参謀においても深く考慮されたことであろうと書いてある。
 こんな外国交渉に手間取れて、東海道軍は容易に品川《しながわ》へはいれなかった。その時は東山道軍はすでに板橋から四谷新宿《よつやしんじゅく》へと進み、さらに市《いち》ヶ谷《や》の尾州屋敷に移り、あるいは土手を切り崩《くず》し、あるいは堤を築き、八、九門の大砲を備えて、事が起こらば直ちに邸内から江戸城を砲撃する手はずを定めていた。意外にも、東海道軍の遅着は東山道軍のために誤解され、ことに甲州、上野両道で戦い勝って来た鼻息の荒さから、総攻撃の中止に傾いた東海道軍の態度は万事因循で、かつ手ぬるく実に切歯《せっし》に堪《た》えないとされた。東海道軍はまた東海道軍で、この友軍の態度を好戦的であるとなし、甲州での戦さのことなぞを悪《あ》しざまに言うものも出て来た。ここに両道総督の間に自然と軋《へだた》りを生ずるようにもなったとある。
「フーン。」
 半蔵はそれを読みかけて、思わずうなった。


 これは父にも読み聞かせたいものだ。その考えから半蔵は尾州の従軍医が書き留めたものの写しをふところに入れて午後からまた裏二階の方へ父を見に行った。
「もう藤《ふじ》の花も咲くようになったか。」
 吉左衛門はそれをおまんにも半蔵にも言って見せて、例の床の上にすわり直していた。将軍家の没落もいよいよ事実となってあらわれて来たころは、この山家ではもはや小草山の口明けの季節を迎えていた。
「半蔵、江戸のお城はこの十一日に明け渡しになったのかい。」とまた吉左衛門が言った。
「そうですよ。」と半蔵は答える。「なんでも、東征軍が江戸へはいったのは先月の下旬ですから、ちょうどさくらのまっ盛りのころだったと言いますよ。屋敷屋敷へは兵隊が入り込む、落ちた花の上へは大砲をひき込む――殺風景なものでしたろうね。」
「まあ、おれのような昔者にはなんとも言って見ようもない。」
 その時、半蔵はふところにして行った覚え書きを取り出した。江戸開城に関する部分なぞを父の枕《まくら》もとで読み聞かせた。大城を請け取る役目も薩摩《さつま》や長州でなくて、将軍家に縁故の深い尾州であったということも、父の耳をそばだてさせた。
 その中には、開城の前夜に芝《しば》増上寺《ぞうじょうじ》山内の大総督府参謀西郷氏の宿陣で種々《さまざま》な軍議のあったことも出て来た。城を請け取る刻限も、翌日の早朝五ツ時と定められた。万一朝廷の命令に抵抗するものがあるなら討《う》ち取るはずで、諸藩の兵隊はその時刻前に西丸の城下に整列することになった。いよいよその朝が来た。錦旗《きんき》を奉じた尾州兵が大手外へ進んだ時は、徳川家の旧|旗下《はたもと》の臣は各礼服着用で、門外まで出迎えたとある。域内にある野戦砲の多くはすでに取り出されたあとで、攻城砲、軽砲の類《たぐい》のみがそこここに据《す》え置かれてあったが、それでも百余の大砲を数えたという。旧旗下の臣も退城し、諸藩の兵隊も帰陣して、尾州兵が城内へ繰り込んだ。そして、それぞれ警備の役目についた。実に慶応四年四月十一日の朝だ。江戸|八百八町《はっぴゃくやちょう》を支配するようにそびえ立っていた幕府大城はその時に最後の幕を閉じたともある。
「お父《とっ》さん、ここに神谷《かみや》八郎右衛門とありますよ。ホ、この人は外桜田門の警衛だ。」
「名古屋の神谷八郎右衛門さまと言えば、おれもお目にかかったことがある。」
「西丸の大手から、神田橋《かんだばし》、馬場先《ばばさき》、和田倉門《わだくらもん》、それから坂下二重門内の百人番所まで、要所要所は尾州の兵隊で堅めたとありますね。」
「つまり、江戸城は尾州藩のお預かりということ
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