衛門は容易に目をさまさない。めずらしくその裏二階に迎えたという老友金兵衛との長話に疲れたかして、静かな眠りを眠りつづけている。
 その時、母屋の方から用事ありげに半蔵をさがしに来たものもある。いろいろな村方の雑用はあとからあとからと半蔵の身辺に集まって来ていた時だ。彼はまた父を見に来ることにして、懐《ふところ》にした書付を継母の前に取り出した。それは彼が父に読みきかせたいと思って持って来たもので、京都方面の飛脚|便《だよ》りの中でも、わりかた信用の置ける聞書《ききがき》だった。当時ほど流言のおびただしくこの街道に伝わって来る時もなかった。たとえば、今度いよいよ御親征を仰せ出され、大坂まで行幸のあるということを誤り伝えて、その月の上旬に上方《かみがた》には騒動が起こったとか、新帝が比叡山《ひえいざん》へ行幸の途中|鳳輦《ほうれん》を奪い奉ったものがあらわれたとかの類《たぐい》だ。種々の妄説《もうせつ》はほとんど世間の人を迷わすものばかりであったからで。
「お母《っか》さん、これもあとでお父《とっ》さんに見せてください。」
 と半蔵が言って、おまんの前に置いて見せたは、東征軍が江戸城に達する前日を期して、全国の人民に告げた新帝の言葉で、今日の急務、永世の基礎、この他にあるべからずと記《しる》し添えてあるものの写しだ。それは新帝が人民に誓われた五つの言葉より成る。万機公論に決せよ、上下心を一にせよ、官武一途はもとより庶民に至るまでおのおのその志を遂げよ、旧来の陋習《ろうしゅう》を破って天地の公道に基づけ、知識を世界に求め大いに皇基を振起せよ、とある。それこそ、万民のために書かれたものだ。

       六

 四月の中旬まで待つうちに、半蔵は江戸表からの飛脚|便《だよ》りを受け取って、いよいよ江戸城の明け渡しが事実となったことを知った。
 さらに彼は月の末まで待った。昨日は将軍家が江戸|東叡山《とうえいざん》の寛永寺を出て二百人ばかりの従臣と共に水戸《みと》の方へ落ちて行かれたとか、今日は四千人からの江戸屋敷の脱走者が武器食糧を携えて両総方面にも野州《やしゅう》方面にも集合しつつあるとか、そんな飛報が伝わって来るたびに、彼の周囲にある宿役人から小前《こまえ》のものまで仕事もろくろく手につかない。箒星《ほうきぼし》一つ空にあらわれても、すぐそれを何かの前兆に結びつけるような村民を相手に、ただただ彼は心配をわかつのほかなかった。
 でも、そのころになると、この宿場を通り過ぎて行った東山道軍の消息ばかりでなく、長州、薩州、紀州、藤堂《とうどう》、備前《びぜん》、土佐諸藩と共に東海道軍に参加した尾州藩の動きを知ることはできたのである。尾州の御隠居父子を木曾の大領主と仰ぐ半蔵らにとっては、同藩の動きはことに凝視の的《まと》であった。偶然にも、彼は尾州藩の磅※[#「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1−89−18]隊《ほうはくたい》その他と共に江戸まで行ったという従軍医が覚え書きの写しを手に入れた。名古屋の医者の手になった見聞録ともいうべきものだ。
 とりあえず、彼はその覚え書きにざっと目を通し、筆者の付属する一行が大総督の宮の御守衛として名古屋をたったのは二月の二十六日であったことから、先発の藩隊長|富永孫太夫《とみながまごだゆう》をはじめ総軍勢およそ七百八十余人の尾州兵と駿府《すんぷ》で一緒になったことなぞを知った。さらに、彼はむさぼるように繰り返し読んで見た。
 その中に、徳川玄同《とくがわげんどう》の名が出て来た。玄同が慶喜を救おうとして駿府へと急いだ記事が出て来た。「玄同さま」と言えば、半蔵父子にも親しみのある以前の尾州公の名である。御隠居と意見の合わないところから、越前《えちぜん》公の肝煎《きもい》りで、当時|一橋家《ひとつばしけ》を嗣《つ》いでいる人である。ずっと以前にこの旧藩主が生麦《なまむぎ》償金事件の報告を携えて、江戸から木曾路を通行されたおりのことは、まだ半蔵の記憶に新しい。あのおりに、二千人からの人足が尾張領分の村々から旧藩主を迎えに来て、馬籠の宿場にあふれた往時のことも忘れられずにある。尾州藩ではこの人を起こし、二名の藩の重職まで同行させ、慶喜の心事が誤り伝えられていることを訴えて、大総督の宮を深く動かすところがあったと書いてある。
 その中にはまた、容易ならぬ記事も出て来た。小田原《おだわら》から神奈川《かながわ》の宿まで動いた時の東海道軍の前には、横浜居留民を保護するために各国連合で組織した警備兵があらわれたとある。外人はいろいろな難題を申し出た。これまで徳川氏とは和親を結んだ国の事ゆえ、罪あって征討するなら、まず各国へその理由を告げてしかるべきに、さらに何の沙汰《さた》もない。かつ、交易場の辺を兵隊が通行して
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