るまいということが、半蔵を不安にした。当時の諸藩、および旗本の向背《こうはい》は、なかなか楽観を許さなかった。
 そのうちに、美濃から飛騨《ひだ》へかけての大小諸藩で帰順の意を表するものが続々あらわれて来るようになった。昨日《きのう》は苗木《なえぎ》藩主の遠山友禄が大垣に行って総督にお目にかかり勤王を盟《ちか》ったとか、きょうは岩村藩の重臣|羽瀬市左衛門《はせいちざえもん》が藩主に代わって書面を総督府にたてまつり慶喜に組した罪を陳謝したとか、加納藩《かのうはん》、郡上藩《ぐじょうはん》、高富藩《たかとみはん》、また同様であるとか、そんなうわさが毎日のように半蔵の耳を打った。あの旧幕府の大老井伊|直弼《なおすけ》の遺風を慕う彦根藩士までがこの東征軍に参加し、伏見鳥羽の戦いに会津《あいづ》方を助けた大垣藩ですら薩州方と一緒になって、先鋒としてこの街道を下って来るといううわさだ。
 しかし、これには尾張《おわり》のような中国の大藩の向背が非常に大きな影響をあたえたことを記憶しなければならない。いわゆる御三家の随一とも言われたほど勢力のある尾張藩が、率先してその領地を治め、近傍の諸藩を勧誘し、東征の進路を開かせようとしたことは、復古の大業を遂行する上にすくなからぬ便宜となったことを記憶しなければならない。
 尾州とても、藩論の分裂をまぬかれたわけでは決してない。過ぐる年の冬あたりから、尾張藩の勤王家で有力なものは大抵御隠居(徳川|慶勝《よしかつ》)に従って上洛《じょうらく》していたし、御隠居とても日夜京都に奔走して国を顧みるいとまもない。その隙《すき》を見て心を幕府に寄せる重臣らが幼主元千代を擁し、江戸に走り、幕軍に投じて事をあげようとするなどの風評がしきりに行なわれた。もはや躊躇《ちゅうちょ》すべき時でないと見た御隠居は、成瀬正肥《なるせまさみつ》、田宮如雲《たみやじょうん》らと協議し、岩倉公の意見をもきいた上で、名古屋城に帰って、その日に年寄|渡辺《わたなべ》新左衛門、城代格|榊原勘解由《さかきばらかげゆ》、大番頭《おおばんがしら》石川|内蔵允《くらのすけ》の三人を二之丸向かい屋敷に呼び寄せ、朝命をもって死を賜うということを宣告した。なお、佐幕派として知られた安井長十郎以下十一人のものを斬罪《ざんざい》に処した。幼主元千代がそれらの首級をたずさえ、尾張藩の態度を朝野に明らかにするために上洛したのは、その年の正月もまだ早いころのことである。
 尾州にはすでにこの藩論の一定がある。美濃から飛騨《ひだ》地方へかけての諸藩の向背も、幕府に心を寄せるものにはようやく有利でない。これらの周囲の形勢に迫られてか、大垣あたりの様子をさぐるために、奥筋の方から早駕籠《はやかご》を急がせて来る木曾福島の役人衆もあった。それらの人たちが往《い》き還《かえ》りに馬籠の宿を通り過ぎるだけでも、次第に総督の一行の近づいたことを思わせる。旧暦二月の二十二日を迎えるころには、岩倉公子のお迎えととなえ、一匹の献上の馬まで引きつれて、奥筋の方から馬籠に着いた一行がある。それが山村氏の御隠居だった。半蔵父子がこれまでのならわしによれば、あの名古屋城の藩主は「尾州の殿様」、これはその代官にあたるところから、「福島の旦那様《だんなさま》」と呼び来たった主人公である。


 半蔵は急いで父吉左衛門をさがした。山村氏の御隠居が彼の家の上段の間で昼食の時を送っていること、行く先は中津川で総督お迎えのために見えたこと、彼の家の門内には献上の馬まで引き入れてあることなどを告げて置いて、また彼は父のそばから離れて行った。
 例の裏二階で、吉左衛門はおまんを呼んだ。衣服なぞを取り出させ、そこそこに母屋《もや》の方へ行くしたくをはじめた。
「肩衣《かたぎぬ》、肩衣。」
 とも呼んだ。
 そういう吉左衛門はもはやめったに母屋の方へも行かず、村の衆にもあわず、先代の隠居半六が忌日のほかには墓参りの道も踏まない人である。めずらしくもこの吉左衛門が代を跡目相続の半蔵に譲る前の庄屋に帰って、青山家の定紋のついた麻※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《あさがみしも》に着かえた。
「おまん、おれは隠居の身だから、わざわざ旦那様の前へ御挨拶《ごあいさつ》には出まい。何事も半蔵に任せたい。お馬を拝見させていただけば、それだけでたくさん。」
 こう言いながら、彼はおまんと一緒に裏二階を降りた。下男の佐吉が手造りにした草履《ぞうり》をはき、右の手に杖《つえ》をついて、おまんに助けられながら本陣の裏庭づたいに母屋への小道を踏んだ。実に彼はゆっくりゆっくりと歩いた。わずかの石段を登っても、その上で休んで、また歩いた。
 吉左衛門がお馬を見ようとして出た
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