来ている馬籠村の組頭《くみがしら》庄助《しょうすけ》もいる。庄助も福島からの彼の帰りのおそいのを案じていた一人《ひとり》なのだ。その晩、彼は下男の佐吉が焚《た》きつけてくれた風呂桶《ふろおけ》の湯にからだを温《あたた》め、客の応接はお民に任せて置いて、店座敷の方へ行った。白木《しらき》の桐《きり》の机から、その上に掛けてある赤い毛氈《もうせん》、古い硯《すずり》までが待っているような、その自分の居間の畳の上に、彼は長々と足腰を延ばした。
 子供らがのぞきに来た。いつも早寝の宗太も、その晩は眠らないで、姉と一緒にそこへ顔を出した。背丈《せたけ》は伸びても顔はまだ子供子供した宗太にくらべると、いつのまにかお粂の方は姉娘らしくなっている。素朴《そぼく》で、やや紅味《あかみ》を帯びた枝の素生《すば》えに堅くつけた梅の花のつぼみこそはこの少女のものだ。
「あゝあゝ、きょうはお父《とっ》さんもくたぶれたぞ。宗太、ここへ来て、足でも踏んでくれ。」
 半蔵がそれを言って、畳の上へ腹ばいになって見せると、宗太はよろこんだ。子供ながらに、宗太がからだの重みには、半蔵の足の裏から数日のはげしい疲労を追い出す力がある。それに、血を分けたものの親しみまでが、なんとなく温《あたた》かに伝わって来る。
「どれ、わたしにも踏ませて。」
 とお粂も言って、姉と弟とはかわるがわる半蔵の大きな足の裏を踏んだ。

       四

「あなた。」
「おれを呼んだのは、お前かい。」
「あなたはどうなさるだろうッて、お母《っか》さんが心配していますよ。」
「どうしてさ。」
「だって、あなたのお友だちは岩倉様のお供をするそうじゃありませんか。」
 半蔵夫婦はこんな言葉をかわした。
 暖かい雨はすでに幾たびか馬籠峠《まごめとうげ》の上へもやって来た。どうかすると夜中に大雨が来て、谷々の雪はあらかた溶けて行った。わずかに美濃境《みのざかい》の恵那山《えなさん》の方に、その高い山間《やまあい》の谿谷《けいこく》に残った雪が矢の根の形に白く望まれるころである。そのころになると東山道軍の本営は美濃まで動いて来て、大垣《おおがき》を御本陣にあて、沿道諸藩との交渉を進めているやに聞こえて来た。兵馬の充実、資金の調達などのためから言っても、軍の本営ではいくらかの日数をそこに費やす必要があったのだ。勤王の味方に立とうとする地方の有志の中には、進んで従軍を願い出るものも少なくない。
「おれもこうしちゃいられないような気がする。」
 半蔵がそれを言って見せると、お民は夫の顔をながめながら、
「ですから、お母《っか》さんが心配してるんですよ。」
「お民、おれは出られそうもないぞ。そのことはお母《っか》さんに話してくれてもいい。おれがお供をするとしたら、どうしたって福島の山村様の方へ願って出なけりゃならない。中津川の友だちとおれとは違うからね。あの幕府びいきの御家中がおれのようなものを許すと思われない。」
「……」
「ごらんな、景蔵さんや香蔵さんは、ただ岩倉様のお供をするんじゃないよ。軍の嚮導《きょうどう》という役目を命ぜられて行くんだよ。その下には十四、五人もついて御案内するという話だが、それがお前、みんな平田の御門人さ。何にしてもうらやましい。」
 夫婦の間にはこんな話も出た。
 その時になって初めて本陣も重要なものになった。東山道総督執事からの布告にもあるように、徳川支配地はもちろん、諸藩の領分に至るまで、年来|苛政《かせい》に苦しめられて来たものは遠慮なくその事情を届けいでよと指定された場所は、本陣である。諸国の役人どもにおいてせいぜい取り調べよと命ぜられた貧民に関する報告や願書の集まって来るのも、本陣である。のみならず、従来本陣と言えば、公用兼軍用の旅舎のごときもので、諸大名、公卿《くげ》、公役、または武士のみが宿泊し、休息する場所として役立つぐらいに過ぎなかった。今度の布告で見ると、諸藩の藩主または重職らが勤王を盟《ちか》い帰順の意を総督にいたすべき場所として指定された場所も、また本陣である。
 半蔵の手もとには、東山道軍本営の執事よりとして、大垣より下諏訪《しもすわ》までの、宿々問屋役人中へあてた布達がすでに届いていた。それによると、薩州勢四百七十二人、大垣勢千八百二十七人、この二藩の兵が先鋒《せんぽう》として出発し、因州勢八百人余は中軍より一宿先、八百八十六人の土州勢と三百人余の長州勢とは前後交番で中軍と同日に出発、それに御本陣二百人、彦根《ひこね》勢七百五十人余、高須《たかす》勢百人とある。この人数が通行するから、休泊はもちろん、人馬|継立《つぎた》て等、不都合のないように取り計らえとある。しかし、この兵数の報告はかなり不正確なもので、実際に大垣から進んで来る東山道軍はこれほどあ
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